三本線        

 

 

 

むー

 

 

冷たく乾いた温度が懐かしい。絹の糸は勿体ないと誰かが小言を言っていたが気にしない。指の腹で丁寧に伸ばしていく。キリキリと独特な音を立てている。糸が馴染むまで時間がかかるだろう。久しぶりで、ここではどのくらい時間が必要だったか忘れてしまった。

 

生まれ育った家の窓枠が、少し低くなったようだと母に話すとあなたが大きくなったのよと呆れられた。昔は大きかったのに窮屈だった部屋は、今は小さいのに広々としている。部屋の私物は日本を発つ時にほとんど処分してしまって、あるのはベッドくらいしかない。備え付けのクローゼットに幾つか質の良い服を残しているくらいだ。

 

空っぽの部屋にある寂しそうなベッドの上に黒いケースを割れ物のように置く。そのケースの上に横たえた三味線が話しかけてくるようだ。寒いからとキシキシと文句を言っている。

 

「日本は寒いな」

 

返事のつもりだったのだが、母が部屋に入ってきて呆れたため息をついた。

 

「冬に帰ってきたら寒いわよ! 今年はまだ温かいほうよ!」

 

更年期なのか常に何かにつけて攻撃してくるようになったと父は電話口で嘆いていた。家事がてんで出来ない上に定年退職した父の愚痴なので耳半分にして聞いていたが、常に苛立っているのは事実だ。昔から温厚というわけではなかったが、ここまで苛立っていたことはなかった。

 

「母ちゃん」

 

洗濯籠を抱えた母に声をかける。

 

「なによ」

 

困ったなあと思いつつ、籠を持ち上げる。

 

「何? 干せるの? その三味線弾くんでしょ?」

 

我が家の男衆に家事をさせることに慣れなさすぎだ。外の空気を吸って帰ってくると時に母が哀れだ。

 

「糸を張り替えたばかりで、まだ弾けないよ」

 

母は戸惑っているようだ。

 

「そ、そうなの。洗濯物はね、シワを伸ばすのよ。タオルも三回は振って。あと、あとは。もう一緒にしましょ!」

 

二度手間じゃないとモゾモゾ文句を言っていたが、心底迷惑という風ではないので、二階のベランダへ向かう。母の足音が軽くなった気がした。そこに胸が締め付けられる。

 

母の後に続くと、ギシリとベランダが悲鳴をあげた。昔は両親と兄と四人で乗ってもびくともしなかったはずだ。

 

「やだっ! やだやだ。落ちちゃうわ。もう、そこに居てなさいよ!」

 

そうやってベランダから母に追い出される形で部屋に戻ると、座ったときに見える景色が高くなっていた。この変わらない町を眺めていると、変わってしまった自分が取り残されたようで心細い。手持ちぶさたなので畳を箒で掃いていると、母がうめきだした。どこか痛めたのかと心配になるところだったが、母は何か言いにくいことがあるとこの声を出すのを忘れていた。

 

「どうした?」

 

自分を落ち着かせる為にも、なるべく穏やかに話し掛ける。

 

「テレビ」

 

話したての赤子みたいに単語だけをいってくる母に、イライラのスイッチが静かに入る。やめてくれと言ってしまいたくなるのをグッと堪える。

 

「え?」

 

「だから、テレビ。テレビで見たわ。向こうで頑張ってる風に映ってたわよ。よかったわね」

 

急に流暢に話し出した母が乱暴に洗濯を叩いている。

 

「テレビ……見たんだ」

 

数ヶ月前に日本のテレビ取材が来ていたことを思い出す。また、ずっと連絡してなかったこともあり後ろ暗い。

 

「ほら! 連絡してこないから、近所の人に教えられたのよ。本当に! 情けないわ。息子の知らせが他人からなんてね……」

 

母が怒っている理由はそこだったらしい。

 

「ネット環境どころか、電気もろくに届かない場所なんだよ」

 

「知ってるわよ! 知ってるわよ。見たんだから」 

 

母の態度にスイッチが切れそうだった苛立ちを押さえられなくなる。このままではいけないなと、父のところへ行こうかと立ち上がると母が慌てて部屋に入って来た。

 

「あ、あと三味線。新しいの買ったあげるわよ」

 

自分のそっぽを向いた爪先にそんな事を言ってくる。

 

「は? なんで急に」

 

「テレビでも近所の人にも言われてたのよ。腕は良いのに、三味線がお粗末だって。良いのに変えなさい。みすぼらしいわ」

 

どこまで本音でどこからが親心か分からない。年を取ると素直になれなくなるのだろうか。嫌な年の取り方だと思った。

 

「いや、いい。あいつが良いんだ」

 

 母も母の気持ちもどうしようもない。何を返すことを望んでいるのか分からない。

 

「お金のことなら心配しなくても」

 

「そうじゃない。慣れたものじゃないと駄目なんだ。俺の腕は全然よくない。母ちゃん、分かってくれ」

 

「そ、そう。なら、いいわよ」

 

 母は安心したのか不満に思って話を止めたのか。こちらに背を向け黙り込んでしまった。

 

「本当だよ。他の三味線じゃ、音が下がっても分からない。取材された時もそういったのに、放送されなかった?」

 

 黙りこくってしまった母と話せるのは父だけだ。あとは父に助け舟を出してもらうほかない。

 

「母ちゃん?」

 

 黙々と洗濯物をベランダに干していく母の肩が震えていたのを見なかったことにして、一階の父が寝転がっている居間に向かった。ただ目的地には父はおらず、台所に立っていた。

 

「父ちゃん。何やってるんだ? 母ちゃんに怒られるだろう」

 

 そう言うと、父は乱暴に包丁を流しに放り込んだ。

 

「黙ってろ!」

 

 父の手元には、歪に向かれて不揃いな黄色く変色した林檎がある。思わずため息が出た。

 

「林檎は食わないじゃなかったのか?」

 

 昔から父は噛んだ時の音が嫌いだと林檎は食べなかったはずだ。

 

「俺じゃない。ほら、あいつにって思って」

 

 そういえば母の好物は林檎だった。父はいつも母のことを知らん振りをしておいて、見てない所でコソコソするのだ。見せないと伝わらないのに、もどかしいなと思う。どうせまた母と喧嘩になるのだろうと早々に台所から退散しておく。

 

 自室に戻ると、暖房がじんわりと部屋に染みわたっていた。ベッドの上の三味線は、嫋やかに自分を待っていた。まだ伸び切っていないことは糸を見ればわかる。仕方ないので、クローゼットの整理でもしようかと開けてみる。そこには服の奥にアルバムが数冊置かれていた。中学、高校、大学と並んでいるそれに目を細める。

 

 開けてしまえば時間を忘れることは分かっていたが、手を伸ばさずにはいられなかった。とりつかれたようにページをめくっていく。忘れていたはずの記憶も写真を見れば不思議と甦ってくる。懐かしい思いに浸っていると後ろからカチリと音がした。振り返ってみると、しっかり絃が伸びた三味線が鎮座していた。

 

「すまん、すまん」

 

独り言で謝りながら、膝と右腕で三味線を抱える。いつからぐらつかなく持てるようになったかなと記憶をたどる。左手で音の調子を取りながらお喋りをするようにキリリと張られた緊張を撥で弾いていく。

 

よく押さえていた箇所がへこんでいる棹が愛おしい。手が覚えている曲を幾つか弾いていく。小さな部屋は音をよく跳ね返し音に包まれる。それだけで気分が良い。それに手に馴染んだこいつの共鳴する場所も感覚で覚えている。一番気持ちよく弾けるのはこいつだけだ。花梨だからと他の人間が、別の三味線を進めても、棹が折れるまではよそ見する気はさらさらない。自分の目が黒いうちはこいつの棹が折れることはきっとない。

 

「健、ごはんよ」

 

 遠くから母が呼ぶ声がする。答えようと部屋の扉を開けると父の好物の香りがした。両親は思いがけず上手くやっているらしい。父がする電話の話はどうやら惚気だったらしいと気がつく。

 

「上手に騙されたってことにしておいてよ」

 

 糸を緩め、色の薄い三味線を丁寧に拭いていく。手の油脂をすべて取り切るまでは部屋を出られない。それのことをテレビで見て知っていたのか母はそれ以上急かさなかった。

 

 三味線ケースに戻すのは惜しいのだが、しばらくは部屋に戻ってこられないんだとブツブツ文句を言いながら絹の布にくるんでいく。

 

 バチンの音がして固いケースの中でこいつが眠る。なるべく早く戻ってくるよと意味を込めて、ケースを一撫でしておいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あとがき

 

 お手に取っていただき、また読んでいただきありがとうございます。テンションを抑えきれず二作品書き上げてしまったので、一つ無料配布することにいたしました。私にしては珍しく明るいお話にすることが出来ました。今回のこのお話にはモデルが居まして、その人に久しぶりに再会したからと言うのが大きいです。やはり作品は一人では作れないなと痛感した作品でもあります。

 

 またお目にかかる機会がありましたら、ぜひその作品も楽しんでくださればと思います。皆様に愛をこめて。

 

むー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

奥付

 

二〇一九年 二十 日発行

 

:むー

 

丁:むー

 

集:むー

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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