十二の娘
馬の丞さち
少女の名前はオイノという。
彼女が生まれた秋田の仙北地方は、奥羽山地にのぞむ静かな山里だ。高低様々の峰がそびえ、その一つ一つに老若男女の神々が祀られていた。オイノはその峰々の中にある、名前もつけられていないような小山を治める女神の娘だった。
所帯を持てる年頃を過ぎた大人の神は、他の神や人間の前に姿を見せぬと言われていた。オイノの母親も例外ではなかった。小さな社に引きこもり、一人娘のオイノにさえ、その声しか届けることがなかった。オイノは物心ついたころから、母の顔を見たことは無い。
しかし、オイノも独りぼっちでほったらかしにされていたわけではなかった。彼女が生まれてすぐ、母神が世話係に雇った万司という人間の亡者がいつも傍にいた。
万司は生前、炭焼きをして生計をたてていたという。彼は二十も半ばで雪崩に巻き込まれて死んだ。当時、妻や子もなかった。六人兄弟の末っ子で実家の墓にも居辛いのとで、オイノの母神が気の毒に思い引き取ってやったのだった。尤も、同じような境遇の若者は母神の山にたくさんいたのでいちいち引き取っていてはきりがなかったが、母神は万司が特に心優しく面倒見が良いのを目にとめて、生まれたばかりの娘を託したのだった。
オイノは万司によくなついた。万司も外へ働きにでるよりこちらの方が天職だと感じた。生前のように腹も減らぬ。あの時、雪崩に巻き込まれてよかったとさえ思っていた。オイノ姫はいつも弟でも呼びつけるように気軽な口調で万司に声をかける。万司はそれに少しも腹をたてぬ。
姫は目鼻に大小の癖のない、すっきりとした穏やかな顔立ちをしていた。それでいて、真夏であってもうっそうと暗い山の奥で育ったためか、肌の色は格別に白い。青い血の筋が透けて浮き上がるような柔らかな気色をたたえていた。
夏、オイノは木の上に登り、麓にある山里の明かりを眺めていた。
どんどん、ぱんぱんと明るい音楽が聞こえてくる。オイノは夏の終盤になると響いてくるこの音楽が大好きで、すっかり月が傾くまで聴いているのだった。
「万司もおいで、こちらのほうがよく聞こえるよ」
「おじょうさま、そんなに高くまで登ると危ない。万が一のことがありましたら、私はおかあさまに叱られて、もう一度死ぬことになってしまいますよ」
万司は社の中に居る母神にも聞こえてしまうであろう大きな声でオイノをたしなめる。オイノはからすかとんびかという程に細い枝に上り麓の人里を見つめていた。人間の子どもと寸分も変わらず、枝の根元に足をひっかけ、次の枝へ次の枝へと身体を上下に揺らしながら意気揚々と木の上を移動した。音が静かになり始めた頃、オイノはやっとこ、木の上から這うように不格好に滑り降り万司のもとに駆け寄る。そして、万司を見上げて微笑みかける。
自らの生きる道に、これからどんなことが待っているというのだろう。屈託の無い若々しい期待にオイノの心は躍った。
しかし、夏の盛りがあっという間に過ぎ去るように、幸福の盛りも長く続くものではなかった。うすぐもりの肌寒い日、母神は社の中にオイノと万司を呼びつけた。社は小さな石の階段をそなえてはいたが、中は人間の大人が四、五人横になれるかといった広さの小さなものだった。何年前に替えられたものだろうという、かびだらけの御簾の奥に気配があった。
「おかあさま」
オイノが柔らかい声で呼び掛けると、弱々しい返事があった。
「オイノ」
母神は彼女の前に現れることはなく、絹鳴りがかすかにきこえるだけだった。
「私はもう年取りを迎えられないでしょう」
旧暦の十二月十二日は山の神の年取りの日だ。
人間が正月に年をひとつ重ねるように、その年にひとつ年をとるのだ。
この日は山神にとってその年で一番の大仕事が行われる。そののちに身内同士でひっそりとお祝いがなされた。あるものは動物になりすまして山の木を一本一本すべて数える。あるものは人になりすまして励んでいた里での畑仕事をすべて切り上げ、春まで山奥へ引っ越ししたりするのだった。
「そんな。来年もお餅を食べましょう。豆を潰して、シトギというお餅を万司に習いました。月の形のものと、日の形のものと、わたしがこさえて持ってきますから」
オイノは毎年ひそかに母の姿を見ることができないかと考えていたのだ。今年こそは、今年こそはと考えていたのにそれをもう迎えられないとはどういうことだ。オイノは次の年取りで十二歳になる。
「万司、オイノを頼みましたよ」
命じつけられた万司は、オイノに触れられぬ亡者の手をそっと彼女の肩に置いたが、オイノはそれに気づくことは無かった。
秋のはじめ、オイノも、万司すらも経験したことがないような酷い嵐が来た。激しい風雨が山を襲った。けものたちは皆頭を痛くして巣にひきこもる。折れた木の枝が母神の住む社の壁にも打ち付けられた。
オイノは乳母の女熊に連れられて山の洞に避難していた。嵐のなか、オイノは何としてでも自分の母親に甘えたい衝動に駆られ、何度も社のところへ行こうと入り口まで這った。しかし、少し外を覗いただけでも冷たい雨風が顔中を殴り、見慣れているはずの外の様子も全く知らない場所のようだった。彼女は外へと身体を引き出す勇気が出ず、情けなく奥に戻って、それでも出ようとして、を繰り返していた。
「おじょうさま、万司がおかあさまのところについています。大丈夫。お休みに」
乳母は大きな身体を覆う艶やかな黒の毛皮を波打たせ、どっしりと洞の奥に座った。まだ真昼だというのに、夜のように暗く、彼女の毛の光と目の光が気味悪く光っていた。オイノがわき腹に顔をうずめにいくと、乳母は五本の指でオイノの頭や肩を撫でた。メノウのように光る前足の爪は短く曲がり、オイノの髪をとかした。毛の色と目の光だけ見れば母娘とたがわぬような寄り添い姿だった。
翌日、嵐が過ぎ去ると、山あいは嘘のように爽やかに晴れた。
太陽が高くなると万司が戻ってきて、乳母だけを洞の外に連れだした。乳母は暫くして干からびた実のついた杉の枝を持ってきて、母親の遺骸だと言った。その意味がオイノにはわからなかった。
万司と乳母はこれまでと変わらぬようにオイノの面倒を見た。後ろ盾の死によって、意地悪く態度を変えることもなかった。それどころかますますオイノを心配し、甲斐甲斐しく世話を焼くようになった。
今まで野山で遊び歩いてばかりいたオイノも、巡る場所をきちんと決めて毎日のように領地を見回ったり、動物たちと挨拶をかわし、その話をよく聞くようにしたりした。自分が何をするでもなくても移ろっていく朝夕の中、手探りで時間を過ごしていた。
オイノは年取りも過ぎた冬の日、山の動物たちを集めて母神の遺品の整理を行っていた。時間も経って気持ちも落ち着いてきたために、公開で行ったのだ。わからないものがあればこれは何か聞いたり、誰かがほしいというものがあればくれてやったりしてもいいと思っていた。ふっくらした狸たちが、縁側に小さな前足をかけてわくわくと眺めていた。
おおかた片付けが終わったころだった。まだオイノの前に残っていた者たちが後ろを振り返ったり顔をみあわせたりしてそわそわとしだした。
目慣れない雉がふてぶてしく胸を張り、動物たちの間を割って前に出てきたのだ。並みの雉より一回りも二回りも大きい、色鮮やかな雄だった。緑色の太い首が、正絹の着物のような光沢を放つ。身体を動かすたびにその身体はふかい空色へと変化していく。万司はその見事さと図々しい態度に目をみはった。
「あれはどこの雉だろう。あの大きさではだいぶ目立つはずだが、あんな大きな雉がこの山にいただろうか」
「あれは母神様の弔いの時にも来ていた雉だ。とにかくわざとらしく大声でわめいていたもの。すぐに覚えた」
オイノの乳母である年増の女熊が、彼女をかばうようにのっそりと前に出ながら答えた。
「止まれ。どこから入ってきた」
万司がすかさずオイノの後ろからキジを叱りつける。
万司と乳母とのまえうしろに挟まれたオイノは、女熊のいかつい肩越しにおずおずと雉を覗いた。彼の嘴は何とも言えず恐ろしげに見え、オイノは顎を引いた。あの固そうなことはなんだろう。一体何でできているのだろう。
「おまえはこの山のキジであるか」
万司が問う。
「否」
雉が答える。
「私はカネザという山から参ったのです」
「北上山地というところにあるのですが、お姫様はご存知ですか」
「私は、他の土地のことはよくわからなくて」
「まあお姫様ですもの。わからなくてもよろしいでしょう。ここよりもだいたいまっすぐ東にある山々です。その中にある、ここよりもだいぶ大きな山です」
雉の物言いに万司はかちんときた様子で返した。
「そんな名前の山、まるで聞いたことがないな。ほんとか」
続きの言葉を黙って聞いていたオイノも、声を漏らす。
「はあ……」
続けて、雉は高らかに述べた。
「そして何を隠そう、その山を治める私の主人こそが、こちらの女神さまの夫でありました。貴女のお父様でいらっしゃるのです」
乳母は振り返り万司と目を合わせて、一瞬何か意思の疎通をしたようだった。
「万司は、私のお父様だっていう神様に会ったことある? 乳母は?」
オイノに尋ねられ、乳母がゆっくりとたくましい首を横に振る。
「奥様がお亡くなりになったことを今更聞いて、なぜ知らせが無いのだと少々お怒りではありましたが、まあお姫様が幼いゆえ。そのお父様から、私はお手紙を預かって参りました」
雉が柔らかい旨の羽毛をうねらせると小さく畳まれた紙がはしをのぞかせた。オイノはこわごわと乳母の横を通り、腰を引いたまま手をめいっぱいのばしてその紙をとった。広げると、朴の葉ほどの大きさの丈夫そうな紙に墨の字が記されていた。
「えっと」
オイノは首を傾ける。
「私まだ難しい字は読めなくて。万司は読めるかな」
手紙を見せられた万司は“わからない”とは言わず、訝し気に目を細めた。
「簡単に言いますと、自分の所へ来いということです。主人は後添いもまだおらず、向こうに子もないのです」
子どもとして、後継者として引き取ってくれるということだろうか。しかし、オイノには心配事もある。
「この山のことはどうなるの?」
「私はただのおつかいなので、そこまではわかりません。余計なことは申し上げられません。とにかく、水入らずで会って話をすればわかるのではないですか」
乳母がせわしなく鼻を鳴らし始めた。
「主人は端午の節句あたりまで待つということです。季節は春を過ぎ夏になるでしょう。それを過ぎても貴女が顔を見せに来ないようなら」
雉は伸び縮みする首元をきゅっと短くすくめた。
「人間の亡者とけだものたちが幼い姫様を操り好き放題しているものとみなして、この山をとりつぶして他の神に譲ると」
いつのまにか、オイノの前に残っていた動物たちはどこかへ居なくなっていた。カラスの一族だけが木の上から遠巻きに眺めている。
「この山はお母様のもので、お父様のものでないでしょ」
「奥様のもの、娘のものなのですから、当然夫のものでしょう」
「私、お父様に会ったこともないのに」
「だから来るようにと、親切に声をかけに来たんです」
オイノは万司の方も乳母のほうも見ることができずに俯いた。
「第一、 貴女はお母様にも会ったことはないのではありませんか」
二の矢三の矢を放つように雉がもの言った。オイノはそこで答えるのをやめた。
大雉が帰ってしまった後も、オイノは乳母の穴ぐらで読めない手紙と杉の枝とを並べて考え込んでいた。
「どこかの山に空きが出ると、必ずくいものにしようとする連中が現れる」
万司が憎々しげに言い放つ。
「俺たちで、いいようにやってきたのに。おじょうさまに菓子のひとつも与えたことがないくせに何がいまさら父親だ。……なぁ乳母」
けだるそうに乳母がころりと横になると、首にある見事な月の輪と、脇の下にある黄身がかった毛とが覗いた。胸元に四つ、腿の付け根に二つの乳首がある。オイノを育てるには余計なくらいだった。
そして間も空けずのことだ。
「万司様、大変です」
さっきの大雉と似たやかましい声にどきりとして万司が洞の入口に出ると、この山に住む細身の男雉がいた。
「なんだおまえか、こんどは何だ」
「罠に、不審な鹿を獲るための罠に」
男雉は、黒地に細かい白縞が入ったおどろおどろしい翼をめいっぱい広げ、叫んだ。
「人間が、かかりました」
【あとがき】
第四回 文芸フリマ岩手での個人誌販売を予定している 『十二の娘』 冒頭のフリー配布です。前個人誌で出させていただいた海を舞台にした作品に続き、山を舞台にした作品に挑戦しています。
父方は猟師、母方は漁師のド田舎家系で生まれ育ち、おそらくもう出ることも叶わないであろう自分ですが、文章や物語を通じて全国の皆さんと触れ合えることをとても嬉しく思っています。この冊子を手に取ったくださったあなた様はじめ、サークルメンバーの皆さん、運営事務局の方々に深く感謝いたします。
歯車は止まらない(hagurumahatomaranaize.jimdo.com)
馬の丞さち(twitter @sa_kubo6) よろしくお願いします。