シルバーリングベイベー

 

桜庭ごがつ

 

 朝七時。真奈の怒声は今日もご近所に響き渡る。
「ほらほら、みんな起きてください! もう朝ですよっ」
 フライパンを片手に、しかしそれを叩くおたまを持たずして、それに匹敵する大声である。
 最初に起きてきたのが弟の健。続いて妹の由美。ふたりともおぼつかない足取りでもってふらふらと真奈に歩み寄る。
「なんだよ、ねーちゃん。今日は日曜日じゃないかー」
 眠そうに目をこする健の頭にチョップを入れて、真奈は「知ってますよ、ブラザー」とふたりを睨む。
「日曜日だからなんだっていうんです? いつもどおり規則正しい生活を心がけていないと、すぐに風邪とかひいちゃうんですよ?」
「ったく、わかったよう。顔洗ってくるー」
「あたしもー」
 洗面所へと姿を消すふたりを見送って、真奈はひとつため息をついた。
 あれだけ大声で叫んでやったのに、いまだ姿を現さない猛者が約一名。
「あの人ときたらもう。耳元で叫んでも起きないくらいなんだから」
 ぷうっと頬をふくらませて件の人物の部屋へ。ノックして、返事を待たずにドアを開けてやると、なんとまあ珍しいことに父、弘之はすでに起床していた。というか着替え真っ最中。今まさにズボンを穿こうと片足を突っ込んでいたところで。
「はわわわ! ご、ごめんください!」
 顔を真っ赤にして部屋を出ようとする真奈に、弘之は「ああ、別に構わんぞー」なんて軽口を飛ばしてくるものだから、
「わたしが構うんですよ、大いに!」
 ものすごい勢いでドアを閉め、そそくさと台所に避難したのだった。
 やがて全員が食卓に顔をそろえ、ついでに口をそろえていただきますと手を合わせる。
「ほら、健、由美。落ち着いて食べなさい。ご飯がこぼれちゃいますよ」
 それにふたりは「わかってるー」「あたしもー」と返しながらぽろぽろこぼして、「わかってないじゃないですかー」と真奈が唇を尖らせる。弘之は朝刊にお熱なようで、箸をもてあそびながら真剣な目つきで三面記事に見入っている。無言で取り上げてやると、ばつの悪そうな顔をして再びメニューの消化作業に勤しみだして。
 そんな、いつもどおりの朝食。
 しかしながら、今回はちょっとだけ違っていた。
「なあ、真奈。お前さん、大学の受験勉強ははかどってるかい?」
「おかげさまでA判定をいただいています。試験当日に寝込みでもしない限り、合格は確実ですよ」
「そうか。まあ、うん、それならいいんだ」
 どうにも不明瞭な父の物言いに、真奈は小首を傾げる。
「どうしたんですか? 奥歯に夕べのロールキャベツでも挟まったような言い方をして」
 すると弘之はほんの少し苦く笑って、
「いや、母さんが死んでから、いつもお前さんにばかり苦労をかけちまって申し訳ないなと思ってな」
「……えっと、『それは言わない約束だよ、おとっつぁん』とか返しておくのが正解ですかね?」
「まじめに言ってんだよ、ベイビー」
「まじめな空気とやらが、どうにも見えてこないんですが」
 父は笑い、「ま、いいさ」と真奈の頭をくしゃりと撫でた。
「今日は会社の接待ゴルフがあるから帰りは遅くなる。夕飯は外で食うだろうし、俺の分は作らなくていいぞ」
「あいあいさー」
 なるほど、だから今日は早起きさんだったのか。ひとり納得する。
 そして健と由美メインによるにぎやかな朝食タイムが終わり、父は愛用のゴルフバッグを担いで玄関へと向かった。
 見送りに出た真奈は「あれ?」と気づく。
 弘之の左手の薬指。そこにあるはずのものがないのだ。
 母が他界してからもずっと肌身離さなかった、結婚指輪。ちょっと野暮ったいデザインの、でもなんとなく父が選びそうな感じの、少しくすんだ銀色のリング。それが今はなくなっていて。
 あまりにじっと凝視していたからか、背中に視線を感じて弘之が振り返る。
「ん、どうした? 俺のあまりの格好良さに胸キュンか?」
「え? あ、はい、そんなところです」
 咄嗟に滑り出てしまった返答に気を良くしたのか、弘之は「ヤケドしちゃうぜー?」なんて言いながら家を出ていった。
 しかしながら、純情な女子高生はそれどころではなくて。
 今朝の、彼の言動を思い出す。
 思い出して――つながった。
「ねーちゃん、どうしたのー?」「どうしたのー?」
 愛する弟と妹の声も聞こえないくらい、真奈は動揺していた。

 そもそも真奈がこんな話し方をするようになったのは、母の影響だった。
 誰にでもやわらかい物腰で、丁寧で、相手を敬う優しい母が、真奈は大好きだった。
 母がいなくなったときはものすごく悲しくて、どれだけ泣いても涙は枯れなかった。
 それでも再び前を向いていられるようになったのは、父がいたからに他ならない。
「母さんが死んじゃって悲しいなあ。寂しいなあ。でもよ、真奈。いつまでも泣いていたら、母さんだって天国で泣いちゃうぜ? そうしたらこっちは母さんの涙で大雨警報だ。傘が手放せない。いいか、真奈。お前さんはいつも元気に笑っていろ。お前さんが元気だったら母さんも嬉しいだろうからな。だから俺だって笑ってる。母さんが大好きだからな。うはははは」
 真っ赤な目をして笑っていた父。
 だから真奈は、そんな彼を信じていた。それなのに――
 そろそろ日付が変わろうという頃、弘之はようやく帰宅した。
「ただいまー、愛する我が子たちよ……って、もう寝てるか」
 真っ暗な玄関に手探りで電気を点すと、
「うおわっ?」
 すぐ目の前で正座していた真奈の姿に驚いて悲鳴を上げる。
「なんだなんだっ? 新手のドッキリか?」
「……お話があります」
 あわてる弘之の言葉を遮り、ぽつりとこぼす。
「ここだと健たちが起きちゃうかもしれません。人のいないところに移動しましょう」
「え? な、どうしたんだ、急に?」
「可及的すみやかにゴートゥーあっちです」
 父の顔を見ないまま、真奈は静かに立ち上がった。

 誰もいない公園は、夜の色に溶けていた。ところどころに設置された外灯が不安げに幾度かまばたきし、そのたびに公園は黒く染まった。
「で、こんなところまで連れ出して何をする気だ? お忍びデートか?」
 接待ゴルフの疲れが出ているのか、弘之の表情は冴えない。ブランコの脇の手すりに腰を下ろし、ズボンのポケットから煙草を取り出す。
「わたしは気づいてしまったのです」
 父の正面に立ち、真奈は言う。
「今日のお接待、お相手は女性ですね?」
「おう、よくわかったな」
「今日のお父さんの行動を見ていれば、当然わかりますよ」
 真奈は気づいてしまったのだ。父が、再婚しようとしていることに。
 愛する妻とのつながりである結婚指輪を外したこと。急に受験勉強の調子を訊いてきたこと。いつも真奈に苦労をかけていることへの謝罪と労い。日をさかのぼれば、まだあるかもしれない。
 父は、真奈のために再婚しようとしているのだ。普通の女子高生に戻すために。
「……わたしは反対です」
 絞り出すように、拒否が紡がれる。
「わたしは今のままでいい。今のままがいいんです。大好きなお父さんがいて、健がいて、由美がいて。そしてみんな、同じくらいお母さんのことが大好きで……」
 弘之は何も返さない。ただ黙って、娘の真剣な表情を見つめている。
「わたしは大丈夫です。家事ももうずいぶん前に慣れましたし、おかげさまで早起きランキング第一位です。輝かしいものですよ、トップというのは。家計簿だってつけられます。節約だってお手の物なんですよ? お父さんの靴下も、専用の割り箸を使えばなんとか洗濯機まで運べます。わかりますか? 学校と家庭、ちゃんと両立できてるんですよ、わたし」
 そこまで言い切って、しばし視線を落とす。
 煙草をふかしながら苦い顔で聞き入っていた弘之は、「よっこらせ」と腰を上げた。
「お前さんの言いたいことはわかる」
「はい」
「ところどころ俺のハートを下ろし金でごりごり削るようなセリフもあったようだが、今は聞こえなかったことにしておく」
「はい」
「その上でお前さんに言っておくぞ?」
「はい」
「俺は別に再婚とかしねえから」
「はい。…………はい?」
 あっさりスルーしてしまった問題発言に、あわてて訊き返す。
「あの、今なんて?」
 すると父は、まったくもうしょうがねえなこいつはよーとでも言いたそうな顔で、
「まったくもうしょうがねえなこいつはよー」
 そのまんまを口にして、がしがしと髪を掻いた。
「だーから。俺は別に再婚とかそういうことは一切考えてねえってこった」
「で、でも、今朝急に勉強のことを訊いてきたり……」
「そりゃたまには訊くだろう。親なんだし」
「苦労かけてすまんとか、らしくないこと言ったり……」
「余計なお世話だ。だが、思ったことを言ったまでだぞ」
「それに……」
 弘之の左手を指差す。本来そこにあるはずの指輪は、やっぱり今もなくて。
「指輪、外してるし……」
 消え入りそうな声で真奈が言うと、弘之は「ああこれか」と手を持ち上げた。そしてその手は彼の懐に伸びて、服の奥から引っ張り出されたのは銀色のネックレスだった。そしてそのチェーンに通っているのは、少しくすんだ、野暮ったい銀色の指輪。
 目と口を大きく開けたままの真奈を見て、弘之はふふんと鼻を鳴らす。
「どうだこれ。格好いいだろう」
 まったくこの父親ときたら。
 そしてそれ以上に自分ときたら、まあ。
「あは……、あはは」
 なんだかもう笑うしかなかった。なんという勘違い。穴を掘ってでも入りたい。せめて頭だけでも。
 顔を真っ赤にして引きつった笑いを披露している娘に、父は言う。
「帰るぞ。風邪ひいちまう」
 その胸元では、引き出されたままの幸福のリングが輝いていて。
 真奈は素直にうなずいて、愛する父の背中を追いかける。
「ねえ、お父さん」
「なんだ?」
「本当に再婚はしないんですか?」
「しねえよ」
「来年も、再来年も、ずっと?」
「来年のことを言ってると鬼が笑うぞ」
「そんな鬼は笑わせておけば良いのです。それでなくとも、わたしは来年の合格に向けてがんばっているんですから」
 父は笑って、「そりゃそうだ」と真奈の頭に手を置いた。
「来年も、再来年も、ずっとだ。ずっとずっと、俺は母さんを愛してるぜ、ベイビー」

                 (完)

 

 腹黒い人ほどやさしい物語が書けるという噂の真偽はわかりませんが、悲しい気持ちのときほどやさしい物語が書けるという話でしたら、たまに犬に語っています。救われたいという作者の願望が物語を介して表に出るのかもしれません。
  いろいろと救われたいぼくの物語を読んでくださった皆様、ありがとうございました。文芸サークル『歯車は止まらない』のブースはあちらになります。

 

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