冬の人

 

馬の丞さち

 

 

青年は指先にツンと、痛いような熱いような甘い痺れを感じていた。

 

顔が冷たい。鼻先が特に冷たい。青年はうつ伏せに寝そべっていた。土の上に居た。蛙の鳴き声も、ほととぎすの声も、こおろぎの声も彼の耳には届かなかった。

 

 夜の深山、今は初冬だろうか。風に揺られた木々の枝がこすれ合う音だけが響く。

 

前に少しだけ目が覚めたことがある気がする。けれど確か朝方だったのだ。彼はすぐに再び寝入ってしまった。

 

「おい」

 

遠くで青年に声をかける者が居た。

 

「おい」

 

いや、遠くではない。声の主は近い。

 

「おまえだよ!」

 

きつい口調と共に、今度は青年の頭部に激しい痛みが走った。そして突然視界が明るく開けた。何者かが彼の頭を平手で殴り、首根を引きずり揚げたのだ。

 

「いつまで寝入っている気だ、このまぬけ」

 

わけのわからぬまま。目をこすると、そこには見慣れぬ姿の男が居た。女のように長髪を頭のうしろで一つの塊にまとめ、入れ墨か化粧か、左右の頬骨のふくらみに、真一文字の記号を、顎の下に縄文時代の土器のような渦巻の模様を描いていた。

 

「ええと……」

 

呆然としている青年に男が続けた。

 

「生き、動くものというのはな、きちんと死に場所を選ぶものだ」

 

そして一つの樺木の根元、深い笹やぶを指さして言った。

 

「冬の間はまだましだった。邪魔なだけでな。雪がとけたら、おまえは半腐れになってでてきやがった。見たこともない虫が沸いて、匂いもひどく、相当な目にあった」

 

青年は座り込んだ姿勢のまま両方のてのひらをしげしげと眺めた。

 

あらためて言われると。そうだ。なんとなく覚えている。一体、自分は何をしに行ったのか。けれど必要に迫られて行ったわけではない。死んでやろうとやけになって足を運んだのだろうか。遊びに行ったのだろうか。とにかく、冬山に一人足を踏み入れて、迷ったのか脚を折ったのか、とにかく帰ることができなくなったのだ。いつのまにか山の中で朽ちていた。とすると、だれも自分の身体を見つけ出してはくれなかったのだろうか。

 

しんみりと黙っている青年に、男は言った。

 

「私はこの辺りを治める熊笹の神だ。おまえは俺の身体や土地を穢した詫びとして、下男として働いてもらおう」

 

熊笹の神は青年に(ゆき)(たけ)と名前をつけた。雪武はそれから彼に命じられるままに意味のわからぬ労働を強いられ、朝も夜もわからない日々を過ごした。まずは川に降りて水を汲んこいと言われた。道具も持てず、水は両手をすり抜け、汲んでくることができない。三日四日ばかり川辺に立ち尽くして、やはり無理でしたと泣きながら帰り主人に罵られ。自分の周りの雑草を刈れだの離れた場所にある彼の社から供え物をとってこいだの、熊笹の神は雪武に無理を命じては役に立たないと怒っていた。

 

 

 

 しかし、死んでからも、雪武に人生の転機は訪れた。

 

その日、雪武は社に立って見張りをし、どんな人間が参りに来たのかを報告する役目を任せられた。しかし、いつも彼の社に人は来ないのだ。社があるのは人里離れた山の中だ。そのため、雪武は一日中、なんのやり甲斐もなく立ちつくしていなければならない。仕事が終わったところで、飯を喰う楽しみも風呂に入る楽しみもない。生きていたころ大好きだった野球も、もう見る手段もする手段もない。しかも社へ人が来たら来たで、供え物をもってこられるから困るのだ。主人のもとへ持って帰ることができず、また叱られてしまう。何故こんなことをしているのだろう。死ぬのではなかった。もう主人のもとへもどるのはやめて放浪の旅に出たい。

 

太陽がいちばん高い位置までのぼり、少し傾き始めた頃だった。何者かが社の正面にある藪を揺らした。狸か、熊か。ここに喰う物はないぞ。雪武はけだるく、その方向をみつめていた。

 

だが藪の奥から現れた塊は、ケダモノの毛皮にはない鮮やかで美しい色使いをしていた。それは、淡い桃色の洋服を身にまとった女だった。かわいらしい花柄の上着に、長いズボンに紺の長靴といういでたちだ。

 

こんな山奥になぜ来たのだろう。女は竹かごからペットボトルを取り出して、シャワーを浴びせるように優しく社に水をかけた。そして、まだわずかに暖かそうな握り飯の包みを出して台の上に置いた。細い小さな指を合わせて、何を祈っているのだろう。雪武は身を乗り出して見入った。劣情をわずかに感じてはいるが、決してそれに支配されることのない子どものころのような淡い心持ちに目を細めた。やがて、祈りをやめて顔をあげた女は、雪武のほうを見た。目があって雪武は思わず背筋を伸ばした。そればかりか、女はわずかに微笑んで会釈をしたのだ。

 

「あ」

 

雪武は声を発しようとしたが、言葉にならなかった。確かに女は自分を見て優しく笑って、頭を下げてくれた。今まで里から来る釣り人や間伐の作業員に話しかけようとしてもまったく気が付いてもらえなかったのに。主人からも、おまえは生身の人間からは見えることがないから諦めろと馬鹿にされていたのに。女はそれ以上何もすることは無く、供え物の握り飯を包みなおすと、それを持ってそそくさと社を去った。雪武は彼女を呼び止め追いかけることもできたが、しばらく頭をつかう仕事もしていなかったこともあって何と話しかけたらよいか考えが巡らなかった。あっけにとられてその場に浮きつくしていた。

 

その日から、何をしていても雪武の中には、あの女を探しに行きたいという思いばかりが募っていた。いつも辛かった主人の罵りも、ほとんどといってよいほど堪えなかった。雪武が女と出会った初夏からしばらく日が経って、もう秋口の頃だった。日が沈み、月が出るまでの暗闇の中で、思いきって切り出した。

 

「熊笹の神さん、俺な。いつも神さんに迷惑かけてばかりだし。その、なんというか。暇が欲しいと思うんだ」

 

「私の山からは追い出すぞ。他の山や麓の集落に行く当てがあるのか」

 

「それは、ないけど」

 

「ここで俺にいびり倒されるよりまし、ということか? ならさっさと出ていけ。まとめる荷物もないから楽だろう」

 

暇をもらうのはあっけないものだった。言い出す前は、離れたい気持ちを打ち明けたら恐ろしいことになるのではないかと漠然と恐れていて何も言いだせなかったのに。

 

次の日、軽い挨拶を済まして主人の領地を出た。あれほど威張っている割に、主人の領地は山の高いところのわずかと、少し離れた場所の社ばかり。雪武は麓へ麓へと降りた。やがて小さな渓流に出た。新しくできた国道が、流れの上を通っていた。朝早いためか。車や人の気配はない。この道路の風景も、雪武には覚えが無かった。さて、自分は何のために、どこからここへきていたのか。

 

大きな石の上に座り込むと、急に胸の奥が熱くなり、いてもたってもいられなくなった。雪武は伏せた。木か草の葉を燻した煙が嗅ぎたい。そう思った。暑い夏の日、強い日差しの中で喉が渇ききったような苦しみとけだるさだった。そういえば熊笹の神は時折、自分の葉を焼いて雪武のほうにけむりを当ててくれたり、供え物の匂いを嗅がせてくれたりしていた。それで飢えることも無かったからそれが必要な行為だという自覚もなかった。どうしようもない畏れが沸き上がってきた。

 

「おう、どこの仏さんだ」

 

何時間伏していただろうか。声をかけられて目線を落とすと、雪武が座っている大石のすぐ下で、ポケットのたくさんついた厚手のジャケットを着て、細い竿を背負った釣り人がこちらを見上げていた。年のころは雪武と同じ三十に届くか届かないかのところだ。

 

「よ、お供えだ」

 

男は腰に巻いた黒い鞄から、海苔で真っ黒く巻かれた握り飯をとりだすと、身を乗り出して、青年の膝元の岩に置いた。だいぶ冷めてはいたが、顔を近づけて香りを嗅ぐようにすると、胸が満たされる思いがした。

 

「どこから来たの?」

 

釣り人のすぐ脇から女が顔を出した。気が付かなかった。身なりは異様で、こいつは自分と同じ亡者のようだ。熊笹の神に叩き起こされて以来、誰かに話しかけられたのは初めてで、返答に困った。

 

女は自分よりも少し年増だろうか。汚れた麻を身に着けて、無防備に肌をさらけ出した素朴な百姓女だ。なかなかいいなとも思ったが、それでもあの社の女には遠く及ばぬものだった。

 

「それが、よくわからなくて。誰にも何にも聞けずにふらふらしていたから」

 

「最近死んだみたいな格好だ」

 

釣り人は雪武の服装をまじまじと見る。雪武はフードが付いた緑色のパーカーに、防水の加工が付いたズボンを着ていた。

 

「私だって最近の人だけどもね」

 

百姓女が続ける。

 

「はいはい」

 

釣り人がいなす。

 

「今まではずっと山の奥で暮らしていたんだけど、この間な、あんたみたいに俺のことを見て反応をくれた人間が居て、そいつに会いたくて、人里までおりて来た」

 

雪武が途切れ途切れにやっと説明すると、釣り人は何の怪訝な様子もなく優しげに言った。

 

「俺もよくわからんけどな。それは、マゴカデしている家で育てられた奴かもな」

 

「マゴカデ? 」

 

雪武が尋ねる。釣り人は百姓女に目配せして微笑む。

 

「マゴカデって言うのはな。このあたりで古い家だと、共働きや出稼ぎの親に変わってじいさんばあさんが子供を育てる風習があるんだ。田舎は意外と片親も多いしな」

 

百姓女がニッと目尻を下げる。釣り人は続ける。

 

「そして、もっと古い家では先祖や知り合いのオマクを後見人に頼んで、子守りさせる」

 

「オマク……」

 

「なんというんだろう。あんたのような、人の意識や、想いのことだ。身体とは別の場所にある。たまに死んでも残っている人がいる。生きているものの身体からオマクが離れて好き勝手に遊ぶこともある」

 

「幽霊とか魂みたいなものか」

 

「それに近いかもしれない。もし、その子が俺みたいに死人に育てられた奴なら、こんな感じでお前のことが見えても不思議じゃないな」

 

「俺は生きて居た頃はそんなこと知らなかった。このあたりの里だけの風習なんだろ。している家は限られているんだな」

 

雪武は尋ねた。

 

「そう、このあたりは(へい)の里」

 

百姓女が道路のほうを指さす。

 

「なんぼか集落があるから、探せばきっと見つかるはずだ」

 

 雪武は彼女の指さす方を見据えた。この道を通って会いに行こう。

 

 

 

フリー配布『冬の人』あとがき

 

先祖の念や魂に育ててもらうという閉の里の人々の伝承、そして雪武くんの物語を引き続き書いていきたし、と考えています(^^♪ ぜひぜひホムペで公開したいと思いますので、サークル『歯車は止まらない』を、そして馬の丞をぜひ検索お願いします。

 

 

 

 

 

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