蒼鷺

 

 

 

うちの近所に職の無い男がいた。老いた母親と三十過ぎの独身兄貴と三人暮らしだった。兄貴は確か下請けの工場でパソコンを叩く仕事をしていた。弟は特段の事情があるわけでも無しに、単に無精者で働かぬ。一時期は新聞の配達などをしているのを見かけたこともあるが、おそらく半年と経たないうちに無職に戻った。

そんな奴が、ある二月末のまだ小雪がちらつく日、インフルエンザにかかって高い熱を出した。兄貴とそいつはあまり仲の良くない兄弟だった。兄貴は居候の弟が、老いた母に伝染病をうつしてはたいへんと慌てた。できることならさっさと死んでくれとばかりに男をはなれに連れ出し、荷物置き場にしていた小屋の中へ男をほうりこんだ。土間しかない冷たい小屋の中、毛布を一枚投げつけた。あとは家に戻り鍵をかけ、しらぬふりを決め込んでしまった。 男は毛布を手元にたぐりよせウンウンと唸り、熱のためにジワジワと目尻から涙を流した 

そして夜も更け、一体何時になったのだろうか。途切れ途切れに寝たり起きたりしていた男がふと意識を取り戻すと、戸のすぐ前でことことと音がした。兄貴が来たのかと慌てて身を起こし黙って戸口を見つめていると、戸を開けたのは見たこともない女の子だった。十代も半ばほどだろうか。外の街灯から漏れ来るわずかな明かりに照らされた肌は、隈の映らない張りがあるものだった。彼女は男がここにいることが分かったかのようにごく自然なしぐさで入り込んできた。隣近所の娘だろうか。普段から近所の寄り合いには出ず、なるべく外を出歩かないようにしていたためどこの誰だかわからない。彼女は手に持っていた袋から綺麗な青いラベルのかかった補水ジュースや熱冷ましのシートなど出し、枕元に置いて微笑んだ。それから介抱されたのだろうがよく覚えていない。朝になると男の熱も引いてだいぶ楽になった。 

 

 

 

そしてそれからすぐ、男は手入れもせずに伸ばすばかりにしていたこぎたない髪や髭を床屋できれいさっぱり剃ってしまった。非常に単純なもので、いつも若い娘に気持ち悪がられてばかりのところを突然優しくしてもらったものだから、彼女のことが気になってしょうがなくなっていた。勿論そんなことは兄貴には内緒で、そろそろ暑くなるし仕事もよいものを探したいからとこざっぱりした格好に変えたことにしていた。また、なんだかんだと理由をつけて納屋で寝ることにした。
 この馬鹿な男はその後、数カ月も納屋で寝た。春先になってやっと諦めかけ、もうこんな甲斐の無いことはやめようかと彼が思い始めた頃だった。あの日と同じようにことことと音がした。男が慌てて引き戸に飛びつくと、小屋の外には鶴のように大きな鳥が居た。表情のない黄色の眼をした蒼鷺だった。蒼鷺は翼をいっぱいに広げてギャウ、と可愛い気のない濁った声をあげる。それがかえって生身の人間が出した声のように聞こえて、男はふらふらと小屋から這い出た。鷺は竹串のような細く長い脚を真っすぐ立て、
胸を張っていた。蒼鷺は男の姿に気付く。ここで天女にでも姿を変えればいいものの、鷺は首を伸ばして奇妙なものを見るように顔を揺らし、すぐに飛び去ってしまった。

 


 男は次の日、近所の川へと急いだ。上流から河口の方へとしばらく歩いてやっと見つけた蒼鷺は、相変わらず愛想の無い顔つきをしていた。男が近づくと当たり前に飛んで逃げていく。中洲に舞い降りるとくちばしを低く下げて彼を睨み付けた。しかしここで男はどういうわけか、この蒼鷺があの時の女の子に違いないとますます思い込んでしまったのだ。

私が買い物に行こうと川にかかる橋を通ると、彼はいつでも中州で鷺を探している。集落の人は頭のおかしい人間だと言う。なぜ私が彼の心の内を知っているのかというと、当の男がこの話を真剣に話してくれたから。街灯も無い、街灯の明かりしかないはずの真夜中の庭に、蒼鷺の姿がはっきり青光りして見えたという。あれは異様な力を持った鳥に違いないと。女の子に姿を変え自分の見舞いに来てくれたに違いないと。私にはよくわからない。

 

 

 

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