鹿の毛ごろも

 

 

 

 紘一は登録を済ませたばかりの新米猟師だった。

狩猟を始めたきっかけはいたって月並みなもので、父親が狩猟免許の所持者だったからだ。所属する狩猟隊も鉄砲店も、父親つながりの人脈で特にこれといった苦労もなく見つけた。とはいっても、世襲などで強制されたわけではなく、彼は小さいころから純粋に自然が好きだった。学生時代には山岳部に所属し、夜中にラジオを聞きながら天気図を描いたものだ。彼は若くして希望に満ちて狩猟を始めた。本当は先輩達について出かけなければならないところを、一人きりでもあちこちと歩き回っていた。

 

 

しかし、その日はいつもと勝手が違った。銃をおろしてため息をつく。完全に道に迷ってしまった。どの道を進んでも同じに見える恐怖、ひたすら木と藪ばかりが続き、日が傾いていく恐怖を肌で感じた。少し歩みを進めては天を見上げる。しかし、似通った形をした木々の枝が灰色の空を囲んでいるだけだった。

二時間ほど林を歩いて、やっと人の手が入っていると思しき杉の列が現れた。それから突然開けた道に出たところで、紘一は反射的に立ち止まり身構えた。その目線の先、大きな角を持った牡鹿が木の間をふさいでいたのだ。

鹿は紘一らの狩場あたりでは少しも珍しくない。むしろ狩猟者の不足により増えている。近隣の農家が食害の被害を受けているという話を頻繁に耳にする。鹿など、平地に居た時は何の貴重なものでも畏れ多いものでもないと思っていた。しかし、山の中で改めて本物のそれを見た時の見事な体躯と筋肉の流れ、けだるげに振り返って彼を一瞥した瞳は非常に見事で威厳に満ちたものだった。山の神が姿を変えて降りてきたのかと思わんばかりだった。銃を向けるなどということは思いもよらず、紘一は無声のまま息を詰めた。

鹿は逃げるわけでもこちらに突進してくるわけでもない。右足を軽くもちあげるとついて来いといわんばかりにひょいと足元の土を叩いて岩場へ進んだ。後をついていく。息を切らしながらつけてくる人間に、慌てて飛び跳ね逃げることもしない。牡鹿はこちらを振り返り、振り返りながら歩んだ。腿の付け根には特徴的な茶の斑紋があり、それをぼんやりと目印にするように進む。

やがて歩みを速めて彼が笹の藪をかけ上がると、膝の丈ほどに黄色いロープが張られている畑へ出た。人工の風景を見て、帰ってきたという安堵で笑みがこぼれる。すると鹿は、さあここでお役は御免だというふうに駆けて行ってしまった。

もしや自分を案内し、救ってくれたのではないかという不思議を感じる一方で、たまたま人里で畑のものでも食べるつもりだったのだろう、畑への順路をけものみちしているのだろうというところで変に自分を納得させた。道に迷ったことが気恥ずかしくもあり、その後周りの誰にも語ることはしないでいた。

 

 

 

それから数カ月がすぎ、季節は夏になった。その日、紘一は父の作った山小屋に泊まり込んでいた。しかし、その日は狩りに来ていた訳ではない。休日が取れたため、キャンプ気分での外泊だった。夜も更けると、ヒイヒイとしたトラツグミの鳴き声が近くの木々から聞こえるようになる。そろそろ寝るかという頃、何やら戸に激しく体当たりするものがある。

なんの剣幕だとおそるおそる戸を開ける。するとなんと、戸を蹴破るような勢いで牛か馬かと思うような筋骨隆々とした獣が飛び込んできたのだ。それは興奮した様子で跳ね飛ぶ。ひとしきり暴れて立ち止まった彼の姿を改めて確認すると、それは大きな角のある鹿だった。しかも肩から首にかけて生々しい切り傷を負っていたのだ。落ち着け落ち着けと声をかけながら近寄る。季節外れの縄張り争いか何かで、他の牡鹿に負わされたと思しき傷だった。それほど深くはないようだったが、紘一は獣の治療に関して素人だ。救急箱をとりだすとその中から消毒液を探り当て、一本使い切るほどに何度も何度も霧を吹きかけて、包帯で巻いた。包帯は三まわり程しかせず、とても傷口を覆いきれるものではなかったが、それを二つの金具で止めた。何もしないよりはいいだろう。

応急処置を受けた鹿は、競馬場のサラブレッドが周回を練り歩く時のように背筋を伸ばし、二まわり三まわりと狭い小屋の中を歩んだ。その後、隅に腰をおろしたかと思うとすっかり安堵した体勢で座り込んだ。彼の左足、腿には茶の斑紋がある。あの時、紘一の道案内をした鹿だった。鹿が落ち着いた様子で目を閉じたので、珍しいこともあるものだと、紘一も対角の一番離れた隅に毛布を一枚敷き横になった。

翌朝、鹿はまだ明るくならないうちに立ち上がってそわそわとあたりを見回した。

 

「おや、出ていくのか」

 

 夢か現かという寝ぼけまなこの中、小屋の戸を開けてやる。今度はいたって落ち着いた様子で、しかし、振り返ることもなく鹿は出て行った。

 

 

 

やがて盆が過ぎ、秋風が吹くようになった。紘一が例の小屋でうとうとしていると、戸を叩くものがある。そこにいたのは薄い群青色のつなぎを着た若い男だ。

 

「やあ」

 

 仲間の内にこんな奴がいただろうか。

 

「失礼ですが」

 

 何者か尋ねると、男は自慢げに襟をめくって肩を見せた。まだ塞がり切っていない生々しい傷跡があった。心当たりといえば一つしかない。まさかと思いつつ、つぶやくように声をあげる。

 

「あの時の鹿か」

 

「まあそんなところだ。おまえさんが薬だか何だかをかけてくれて、ゆっくり寝かせてもらったもので、あの後具合も悪くならずに順調なんだ」

 

男は招かれもしないうちにひらり小屋の中へ入り込むと、流し台の下にある戸棚を開けて勝手に二リットルの紙パックに入った清酒を取り、嬉しそうにコップにあけた。

 

「友達になろう」

 

 自分の物のように酒を差し出す。それから彼は紘一が居るのを見計らい、酒を飲みに来るようになった。しかし、特に手土産など持ってくるというわけではない。道案内の代金を引いたとしても、どうも飲ませ損な気がするほどに飲む。つまみの菓子などがあると人間と寸分たがわぬ様子でそれもむさぼり喰う。鹿というのはずいぶんずうずうしいものだなと思った。

 

 

 

その年の冬、猟に出た紘一はやっと見つけたテンを狙ったところだった。テンが雪の丘をそろそろと用心深く這い出たところで、警戒の声とはまた違った鹿の鳴き声がした。近い。線の細い「ミウミウ」とした切なげな声だった。その音に気をとられてそちらを向きふらふらと歩いたテンは射程の距離まで来てしまったのだ。紘一はその細い身体を、屋外の射撃場で練習した時のようにたやすく撃ち抜くことができた。紘一が獲物を持って小屋へ片づけに戻るなり、待ち構えていたようにやって来た男は満足して言った。

 

「こうして協力しあってやっていこう」

 

テンの毛皮は染料で色をつけたかの如く鮮やかな黄色をした冬毛であった。年寄り連中がたむろする居酒屋に皮を見せにいくと、いつもいる狩猟の先輩達はそれをたいした褒めた。昔はテンをとるには二人で行くなと言ったほどだ、毛皮を巡って殺し合いになるくらいに貴重で珍しい獲物だから、と。

それから、猟犬ならぬ猟鹿の力を借りて紘一の狩猟の腕は見事なものになった。鹿の挑発に乗り、小藪を横切ってきた熊や狐などをとらえた。その日の獲物に合わせて、今日は散らし弾がいいだのライフルを借りて来いだの男はどこまでわかっていることやら口出しをした。

そしていつものようにその奇妙な客と酒を飲んでいると、彼はふいに切り出した。

 

「実は来週、おまえさんにぜひ仕留めてほしい獲物があるんだ。準備はできるか」

 

「なに、いいとも」

 

調子に乗って快諾する。

 

「しかし、何の獲物かは秘密だ」

 

 男はしなやかな脚遣いで戸の前に飛び、左側の口角だけ思わせぶりにひきつらせ、少し意地の悪い様子で微笑んだ。

 

指定の日、打ち合わせの場所であった杉の木陰で待っていると、なんと木々の間を縫って現れたのは逞しい牡鹿ではないか。一瞬我に返り、まさかあいつではあるまいなと左の腿を確認する。木の葉やその陰に隠れて体の色は途切れ途切れにしか見えぬ。しかし、あの腿にある茶の斑紋は確かに無かった。彼とは別の鹿だ。

やがて奴の声が聞こえ、目の前の牡鹿と会話でもするように鳴き交わした。紘一はいつのもように淡々と仕留めた。解体のために身体を吊り下げる道具もないため、雪の上に寝かし、獲物の身体を冷やしながらどうにかこうにか片づけを済ました。三月の末で鹿の猟期にはぎりぎりだった。カラスがあたりの枝にびっしりととまり、人のような喉声で鳴いていた。

小屋に戻って何時間も経たないうち、男は嬉しくてたまらないというふうに跳ね飛び込んできた。

 

「おまえさんはたいした話のわかる名人だ」

 

 ははあ、あの牡鹿は奴のライバルだな。おそらく初めて小屋に飛び込んできたあの時、奴に怪我をさせた鹿だ。土の上に倒れこんだその牡鹿の、表情無く開かれた大きな瞳を思い出し、紘一は後味の悪い心持ちでいた。何も言葉を返さず男を無視する。

 

「おい」

 

 今度は肩に手を置いて前に回り込んできた。突然だとは思いつつ、切り出した。

 

「悪いが、もう獲物を手配してもらうのは終わりだ。余計なお世話だ。おまえはもう手を貸すな」

 

 男はあまりに急な心変わりに何か言いかけたまま口を半開きにしたが、すぐに怒りの表情になり言い返した。

 

「なんだと。おまえなど丸腰一人では何も狩れないくせに。犬だって鉄砲だってそうだ。人間は何かの助けなしには食い扶持も保てないんだ。今更いい子ぶるな」

 

「何と言われもいい」

 

紘一は返す。おまえは鹿でないのか。鹿を殺す手助けをしてよいのか。様々な感情が胸の内に浮かび上がったが、それをわざわざ言葉に出すことがみっともないように思えて、それ以上何も言えずに黙り込んだ。

男は当てつけのように大きな音をたてて、獣の姿で戸を蹴破った時と同じ勢いで出て行った。たとえ衣服ぐらいは着て来たとしても、さすがに鹿が携帯電話や無線機など持っているわけではない。それからは向こうが会いに来ない限り自然と音信不通になり、もう彼との縁は切れたかと思われた。

 

 

 

そして当然、それからの紘一の猟果はさっぱりだった。蓋を開けてみれば、彼は獲物を見つけることすらおぼつかない。

 

「びぎなーずらっく、といったところか。まあ賭け事と同じで最初は不思議とうまくいくものだ。それでどんどんはまってしまうんだな」

 

 あいつには才能がある、俺ははじめから見抜いていたんだ、と調子の良いことを言って紘一をほめそやした先輩までも、馬鹿にしたように背中をがつんと叩いて笑った。面白くない気持ちも当然あったが、まあいいさ、これが反則無しの俺の実力だ。はじめにリードを稼いだだけでもいいことにするかと紘一は自分の気持ちを落ち着かせた。

 さて面白くないのは、あの鹿は紘一の狩りに協力をしないばかりかやがて邪魔をするようになったのだ。獲物と彼との間に割って入って大仰に飛び回ったり、犬の吠え声のような耳障りな大声をあげたりして逃がしてしまうのだ。自らの場所を知らせるような鋭い声で鳴くキジを見つけても、その一匹すら仕留められない。撃ってくださいと言わんばかりにのろのろと目の前に出てきたたぬきも逃がした。 

生活がかかっているわけではないにしろ、どうにも腹立たしくてしょうがない。農家から駆除の依頼がきたにも関わらず成果がゼロの時などは、情けなくてどうしようもなかった。もうあいつを撃ち殺してやろうかと何度も考えたが、そういう殺意が沸き上がるときに限って彼は飄々と逃げてしまうのだ。

 

 

春先、また小屋の戸を叩くものがあった。

 

「やい、紘一、やい」

 

 あの男の声だった。

 謝罪にでも来たのか。一言二言謝ったところでもう協力などしないぞ、文句を言ってやらねばと思って勢いをつけ戸を開けると。戸の前に居た男は全く悪びれない様子で嬉しそうに笑った。

 

「やあ、そろそろ反省したころか」

 

 反省だと。それはこっちの台詞だ、という紋切の罵り文句が一つ頭に浮かぶものの、いつもあきれ果てて肝心の声が出ない。

 

「もう一度俺と手を組む気になったか」

 

 男が続ける。

 

「冗談じゃない」

 

 やっとのことで言って戸を閉めた。ザックからラジオの機械を取り出すと、イヤホンを両耳に押し込めて、めいっぱいの音量にニュースをかけた。それからも男は幾度となく紘一の元に来ては、やいやいと喚いて戸を叩いたが、完全に無視を決め込んだ。

そしていつものように男が尋ねてきてしつこく戸を叩いた翌朝、紘一は冷えた空気に当てられて小屋の見回りに外へ出た。すると、小屋の裏側に寄りかかるようにして倒れているものがある。それは牡鹿の遺骸だった。そこらの木枝を手にして突いてみる。首の傷跡や腿の斑紋から見て、男に化けて出た鹿だった。

なんだあいつめ。死んでしまったのか。ただ、見た限りでは銃創も病気の跡のようなものも見受けられない。どれもっと詳しく見てやろうと小屋に手袋を取りに行き戻ると、鹿の遺骸はそのままで脇にあの男が居た。

 

「おい。おまえは」

 

 歩みを止めて立ち止まる。

 

「なんでここにいる。おまえは、この死んでいる鹿ではないのか」

「ん。おれはこの鹿だ」

 

 堂々と言ってのけ、男は鹿の胴を蹴り飛ばした。

 

「鹿だったといったほうが正しいか。こんなものはただの着物だ。肉と骨の毛ごろもだ」

 

 続けて角の根元をつかみ、鹿の頭を起こした

 

「しかもこれは質の悪い衣装だ。この世に俺を縛りつけてきた。捨てるには大方、苦しい思いをしなければならない。猟師に撃たれたり、病になったり。古くなって使い物にならなくなるのを待つしかない」

 

「毛ごろも、とは」

「最近の若い猟師はそのようなことも知らないのか」

 

 意地の悪い年寄りのような返事とは裏腹に、彼の口調と表情は穏やかだった。

 

「けれども、この間おまえの邪魔をして逃がしたたぬきがいただろう。あいつ、あの世の偉い方の荷物を取りに来ていたお気に入りだったというのだ。それで今回特別、俺は苦しまずにこの着物を脱ぎ、あの世に行けることになった。猟師の邪魔をしたお手柄で」

 

 男は手を一つ叩く。

 

「しかし、これはおまえさんの手柄でもある。俺を怒らせて狩りの邪魔をさせたのだから。この皮と肉と骨をおまえさんにやろうとおもってわざわざここに持って来てやったのだ」

 

 こんなものはいらないと紘一が言いだすのを遮るように語る。

 

「最初に出会った日、俺は特別の理由もなしに気まぐれでお前を助けた。ただ若い猟師が珍しくて。けれども今となってはこれもあの世の偉い方のおぼしめしだったのではと思う。もうここに来ることもないだろう」

 

男は鹿の肉体にはなんの未練もない様子で林の中へと消えた。ただの毛ごろもだというその遺骸を前にして、紘一はふと、自分の髪の毛を引っ張ってみた。左の肩をつねってみた。

 

 

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