クローズドウィンドウ

 

 僕がその男に出会ったのは、もう午後に入ろうかという時間の、清廉潔白な朝の事だった。

 男の図体は一般男性の平均より極力太く、それでいてがっしりとした体つきだったから、僕は何か何かと怯えるように身構えた。格好は淡い茶色のネクタイにアイロンでぴっちりかけた後のようなグレーのスーツ姿だった。小さい眼鏡が余計に顔の大きさを象徴するかのように、あった。

 僕はといえば、薄手のオレンジ色のポロシャツにジーンズという格好だったから、彼と合わせて見ると、対極の存在であるのがわかるだろう。

 僕はエリック・サティの作品集を聞きながら朝食を作っている最中だった。彼の様な素性もわからない輩を家になんて入れるものか、と内心緊張していた。

 再び、インターホンが鳴らされるが、それにもまた無視するしかなかった。今の僕の精神状態では誰とも満足に、話さえ出来ないんじゃないかと思えた。

 それに、僕はもうこの世界に用事なんてものは到底見つかるわけも無いので、冷静に思考をめぐらせて、あの男には居留守を使おうと考えた。なにやら危険な香りがする。彼という男の雰囲気でありありとそれが見受けられた。

 再び、インターホンが鳴らされる。これももう何回目になるのかわからない。

 随分、粘着質で諦めの悪い男だった。僕はもうここにはいないし、いたとしても何も繋がれる物などないのだからと、朝食のパンをトースターに入れる。

 彼が声をかけてきたのは、パンが焼けるその瞬間だった。

 

「いるのはわかっています。貴方の重大な今後についてお話があります。居留守を使ってしまうのは懸命ではないですよ」男は言った。

 ほどよくこんがり焼けたパンをほったらかしにして、僕は重い足取りでインターホンに備え付けのカメラに向かった。

 やれやれだな、と僕は思った。カメラを覗き見ると、先ほど見てから変わらない立ち位置から彼は声をかけたのだとわかる。大層大きな声だっただろう。リビングで、音楽を聴いている僕に届く声だったのだから、それは大層大きな声だ。

「用件はなんだい? 今は忙しくて出れないよ」僕は諦めて言った。

「貴方のその状況に対して、明確な方法や答えが見つからないのでしたら、お話をさせて頂けませんでしょうか。心身疲労しているのは重々承知しています。よければ、私を信じてもらえればと思います」男はそう言った。

 何を言っているのだろう、この男は。

 この状況? いつもと同じ素晴らしく軽快な朝じゃないか。戦争や飢饉とは無縁の絶対的な朝じゃないか。彼は何を言っているのだろうと思った。

「僕は、別に、危なっかしい絶望的な状況でもないし、君の様な素性も知れない男と話す時間はないです」僕は自分の言葉を十分に確かめながら言った。

 そうだ。別にそんなていたらくな状況ではない事を理解している。

「今一度、考えてみてください。その状況が意図して好んだ状況であるか。そして、それからの行動が貴方の、曲がりに曲がった行く末を決めるのです」

 男は随分、諦めが悪かった。止まることの知らない夜行列車みたいだな、と僕は思った。

 そして、数分の時間考え、彼を中に招き入れる事に決めた。それ以外、僕にはどうしようも無かったからだ。

 彼は自分の家(または会社か?)で、僕に魅力的な言葉群をしゃくしゃくと選び抜いてきたらしかった。

 僕が玄関に立ち、扉をゆっくりと開けるとその男は微笑み、頭を下げてきた。

「ありがとうございます。話は中で進めましょう。貴方も、ここで話すのは得策ではないだろうし、喫茶店でも気が休まらないでしょうから」

 

 彼を家に入れて、リビングへ連れて行った。

「座ってもよろしいでしょうか」

 かまわない、と僕は言った。男はテーブルに置いてあった猫の置物を触った。

「猫ですか。猫は良いですよね。自由奔放で無邪気で、時たま、野生の一片が見える。私は生まれ変わったなら猫になりたいと思っています。誰か優しい飼い主に拾ってもらい、気の済むまで寝て、気の済むまで動き、気の済むまで食べる」

「だけれど、最後は捨てられ、保健所で殺処分される」僕は言った。彼は笑いながらそのアンティークを触り続ける。

「あまり、触らないでくれよ。壊されたら困るんだ。結構、値打ちのする物だから困るんだよ」

 その猫の置物は、妻が私の誕生日プレゼントに買ってきた物だった。

 僕は少し憤りを覚えながら、さっきの話について訊いてみる。トースターで焼けたパンはもう冷めてるらしかった。

「で、その、なんだ。この状況について、君は何か知っている事があるのかい?」

「もちろん。その状況について、私は一寸の狂いもなく言い当てることが出来る。私が、ただの頭のおかしい恰幅の良いおじさんと思われているのは、否応なしにわかります。貴方の目を見れば。でも、貴方は招きいれた。追い込まれた事態に一人じゃ対処出来なかったからです。その心の内も、手に取るようにわかる」彼は言った。喋る度にその二重顎がたぷたぷと揺れるのがわかった。邪魔する物もない、高慢でいて、遠慮というものが一切無い地震の様に揺れた。

「貴方のその驚きも、何かもがわかる。それについての答えや兆しなんて物も私は知っている。私の脳内の本棚にそれは輝いている。それで、貴方の意向を今一度、訊きたいと思い尋ねたのだが、迷惑だったかな」その二重顎は言った。

「温かいパンの、一枚分ぐらいには迷惑だね」僕は言った。

「それは、済まない。幾分火急で大事な用だった物で、その点については謝ろう。どうぞ、朝食を取りながらでも聞いてください。まあ、今で言うなら、昼食ではあるけれども」

 僕は時計を見て納得し、かちかちに冷えていたパンを食べ始める。小麦の自然的な風味が口いっぱいに広がる。それは、広大な荒野で一羽の鳥が羽ばたくように、僕の胃の中へ収まっていった。

「珈琲を持ってきてもいいかな」

「どうぞどうぞ、のども渇いたでしょう。貴方の家で貴方が何をしようが、貴方の勝手でしょう。それでいて、珈琲なしではこの話は聞けないというもの。どうぞ、どうぞ」

 僕は作っておいたドリップ珈琲を二人分注いでテーブルに持って行く。温かい珈琲だ。無糖で真っ暗な液体が、僕のこの先を暗示しているように見えた。

 それで私は充分だ。

 彼は僕の入れたティーカップを手に取り、ありがたい、と言った。二、三度、口をつけ、それからテーブルに置き、話の本題を言い始めた。

「これが予期された物でさえ、貴方は心の準備なしに行なったようだ。憔悴しきっているのが私の目でもわかります。それがどんな結末でさえ、人は何かをなしじゃいられないんだろうと私は思います。ですから、ここから貴方が逃げる案を私は考えてきたのです。当分の間はその、一切遮断された場所で気を休め、時が来たら、勇気を持って踏み出すのです。貴方にはその心意気がありますか?」

「ない、といっても過言じゃない。君は僕の全てを知ってるらしいし、君の話を聞けば、僕に誠意でもって尽くしてくれる事はわかる。だけれど、それは僕の覚悟していた事だし、それについて責任や罪悪という物を負わなければいけないのも感じている。罰というのも背負わなければならない」僕は心からそう言った。彼はそれを聞いて、ふむ、と一つ漏らし、困ったような顔で僕の目を見つめた。

 エリック・サティの素晴らしいピアノ曲達が終わった。

 

「ふむう」彼は言った。重くおどろおどろしい、野太くしゃがれた声だ。悪魔、というものが存在するのなら、彼の声がまさしく悪魔のそれだった。

 先ほどから彼は思案し、珈琲を飲み、思案し、珈琲を飲むを繰り返している。彼の様な男が縮こまって、うんうんうねっているのをみると、なんだか気が穏やかではない。

「よろしい、わかりました。じゃあ、こうしましょう。今日、今日だけで良いので、私に付いて来てくれませんでしょうか。貴方の気持ちは重々承知しているつもりです。それでも貴方に来てもらいたい。それが貴方のためにも、罪や罰への一端にもなるでしょうから」

 僕はやれやれ、と思った。僕より20センチも背の高い、腹回りは60センチも太いであろうその男は、僕に向かって頭を下げてきた。やれやれ。

「貴方がそんなに僕に固執するのがわかりません。僕でなければいけないのですか?何処へ行こうっていうんです?」

「貴方でなければいけないし、貴方でなければ行けない所へ連れて行くつもりです。出会って数分ですけれど、私の事を信じてください。世界の終わりがそこまで近づいているんです。それを確定された事項にするのか、それとも違う糸口から解決方法を決めるのかは、貴方がその目で見て、貴方の手が触れて、貴方の心で決めてしまわなければいけません」彼は真剣な顔でそう言った。布巾でふき取ったピカピカの陶器みたいな目で、僕を見つめた。

 僕は滝の様な汗をかいていた。この数分で身体中の水という水が変換され汗となって出て行った気がした。僕は数分、頭の中で考え、心の中で思い、決心した。「わかりました。貴方に付いて行く事にします。私も別段、用事という物は無いし、この空虚な時間を埋められるのなら、貴方についていく事にします」

 彼はその大きな口を曲げ、僕に向かって笑った。

「ありがとうございます。では、今から行きましょう。いやいや持ち物はいりません。貴方がいるだけでいいのです。オレンジ色のポロシャツとジーンズだけがあればいいのです。さあ、早く行きましょう」彼は先ほどと、打って変わって元気になりながら、僕に言った。

 

 彼に連れられて歩くと、なんだか親羊についていく子羊を連想させた。

 街の並木道や街路樹の陰が僕らの姿を何度も黒くした。今日はとても涼しい風が吹いていて、子供達が近くの公園で、はしゃいでいるのが見えた。純真無垢な子供達を見ていると、僕の心はいくらか晴れた。珈琲に入れるクリープや砂糖みたいに自然に晴れ渡った。

 彼はその重い体をどしっ、どしっと動かしている。彼の背中はとても大きく、前の人から見れば、僕の体が隠れることを安易に想像できた。涼しい風と温かい直射日光が僕ら二人に当たっていた。

「ここの路地です」彼は言った。

「ここの路地裏に世界の終わりへの道があります。付いてきてください」

 仄暗い商店街の路地裏に入る。人、二人分、入るか入らないかという具合の道だった。とても狭い。民家の窓やら換気扇の出口が、決して良いとは言えない匂いを吐き出している。

 彼は下にあるマンホールのふたのような物を指差した。

「これです。この下に、貴方の答えと運命があります。見た目はどこにでもあるくらい、普通なマンホールですけれど、確かにこの穴が世界の終わりに続いているのです」彼は言った。

 まさか、と思った。彼がそのマンホールを自慢の馬鹿力で持ち上げるのが見える。開いた穴は真っ暗ではしごだけが付いていた。

「さあ、その覚悟が無くならないうちに、どうぞ、この中へ」

 そう言うと彼は先にその穴の中に入り、はしごを降りていった。僕はまたもや、後に続くようにしてその、完璧な暗さの無機質な穴の中に入っていった。

 

 

 僕が彼女に出会ったのは、夏の匂いが鼻先に近づこうという季節だった。6月初旬の優しげな風と、梅雨前のじめじめ湿った空気のする大学の構内だった。

 僕はその時、一人、生徒達がのんぴり休められるテーブルで、『ヘルマン・ヘッセ』の『車輪の下』を読んでいて、優雅に読書に耽っていた。その時に声をかけてきたのが彼女だった。

 薄い桃色のカーディガンに、白のYシャツ、きめの細かいデニムという、なんら当たり障りのない服を着ていた。身長は160そこそこで、フランス人形の様な、端整な美しい顔立ちをしていた。

「今さらヘルマン・ヘッセを読むのって時代遅れみたいだわ」彼女は初対面の僕にも遠慮無しに、そう言った。僕は呆気にとられ、少し間が空いて、僕に声をかけたのだろうとわかった。

「いや、昔呼んだことがあるんだけれど、今、また読み返してみるとなかなかに面白くて」

 彼女はそれを聞いて微笑み、目の前の空いている席に座っていいかと尋ねた。    

 いいよ、と僕は言った。

 彼女が座ると何かと居心地が悪くなり、彼女の目を見て、僕は尋ねた。

「ヘルマン・ヘッセは読んだことがあるの?」

「ないわ。多分、一生読む事は無いでしょうね。海外文学で読んだことがあるのは、『アンナ・カレーニナ』と『老人と海』だけよ。それ以外は嫌悪感があって読む気になれないの」

 それだけ読めば十分さ、と僕は言った。彼女はまたもや微笑んだ。鋭い、何かの結晶石みたいな目だった。下ろした髪で、時々隠れる、怯えんぼうな目だった。

「どうして、こんな所でいつも本なんか読んでるのかしら。しかも時代遅れの小説に、時代遅れのジーンズに、時代遅れのポロシャツなんかを着て」

「空も青いし、空気もうまい。水は出るし、コンビニもある。鳥も飛んでるし、兎も野草をかじる。だから、僕はここで本を読んでる」

 変な人ね、と彼女は言った。少し首をかしげたその顔が、僕の目に魅力的に映った。

 今まで、女の人と話す事なんてあまり無かったから、僕は意識せずにはいられなかった。読んでいた本をテーブルに置き、彼女と向き合う。

「どうして、声をかけてきたの?」僕は訊いた。

「どうしてか、と訊かれると言葉に詰まるわね。つまり、いつも同じ場所で同じ風に小説を読んでいる貴方が、周りの人たちとは違うと思ったからよ。私も本はたくさん読むの。太宰治は好き?」

「嫌いではない」

「私は好きよ。読んでいると荒廃した砂漠みたいな情景が思い浮かんでくるの。他には何も無くて、ただ一心に読み上げることが出来る。凄いと思うわ」

「でも最後は愛人と心中してしまう」

 彼女はそうね、と言った。それから一瞬、目をふせて僕に言った。

「貴方は文学が好きなの?」

「そうでもない。僕が本を読む理由はそこに本があったからで、クラシックギターがあればそれを弾いていたし、映画があるならそれを観ていたし。たまたま、手身近なところに本があっただけだよ」

 変な人ね、と彼女は言った。

 僕はこの気持ちを好きや嫌いなんかで言い表せなかった。いつもそこにあるものだと思っていたから、それに準じ読んでいただけだった。それで、有意義な何かを得ることができるなら、それは重大な趣味とも言えるらしかった。かけがえのない趣味だと言えるらしかった。

 彼女は手で輪を作り、テーブルにひじを乗せ人差し指をくるくると回していた。綺麗な手だった。今まで穢れたことの無いような端麗な手だった。

 数秒経つと彼女は、立ち上がりながら僕にむかって言った。

「この後、暇はあるかしら」

 

 彼女と一緒にファミリーレストランに入った。僕は、近くに休める喫茶店やカフェなんて所は知らなかったから、妥協した。この日のために大学周辺を入念に調べておかなかった自分を恨んだ。

 入ってしまえば、仕方が無い気もした。「煙草は吸うかしら?」彼女が言った。

「いや、君が嫌なら禁煙席でもかまわない」

「私は、煙草は吸うか、訊いてるの」

 吸う、と僕は言った。彼女は微笑み、ウェイターに喫煙席で、と言った。ウェイターはこちらになります、と慣れない言葉使いで案内した。

 僕達二人は、対面に座り、その窓から大学の方を見た。

「あそこに、たくさんの人が蟻みたいにひしめきあってるなんて、考えたくもないわね」

「僕達も、毎日その蟻になっているんだ」

「そうよね……貴方は何年生?もう就職活動で、疲労困憊の忙しい学年なのかしら。私は二年生だけれど」

「僕は三年生だ。だけれど、まだ就職活動の時期ではなくて、その準備期間みたいな物かな。雷雨が降る前の暗雲みたいな時期だよ」

「そうなの?」

 彼女はふふっと笑った。唾液で光る唇が艶かしい。

 僕は強烈な欲求に襲われたが、辛抱して彼女との会話を楽しむに興じる。

「貴方は、自分の部屋を持っているかしら?それとも、もう親の手から離れて一人立ちしているのかしら。仕送り云々はどうでもいいことだけれど」

「僕はもう一人で生きてる。月に何万かはもらっているけれど、自分の事や家事は満足に行なうことが出来る。ここら辺に住んでいるんだよ。大学にも近いし、なにかと便利だしね、ここら辺は」

 そう、と彼女は言った。無感情な声だった。大きな湖に石を投げたかのような無感情な音だった。

 彼女の言葉からして彼女は、一人暮らしをしていないようだった。僕は深く詮索しないよう気をつけた。

「でも、独りの部屋っていうのは、あまり心地良い物なんかじゃあないんだよ。

憧れや好奇心からすぐに親元を離れようとする人が多いけど。愛情を利用できる内は利用すればいいと思う」

 愛情か、と彼女は言った。またもや無感情な声だった。僕は何か障ったことを聞いたのだろうか。

「それでも、いつかは一人立ちして、お金を稼ぐ事だけに目を向けなければいけないのね。人間って。それが望んだ形じゃないにしろ、縋ってちゃいけないのよね」彼女は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「大変だわ、人間になるって事は……なにか、頼むかしら?」

 僕はハンバーグセットと言った。彼女もそれを頼んだ。

 

 彼女と別れて、僕は自分の家に帰った。六畳間の、古くかび臭いボロのアパートだ。おまけに片付けるという行為を頻繁にしないため、しっちゃかめっちゃかに衣類やペットボトルなどが散乱している。 これを全て片付けるには膨大な時間と、絶大な疲労を覚悟しなければならなかった。なので僕は未来の自分に託すことにした。

 どうせ今やってもいつかは汚れるんだ、後でやってもなんら不利益は無い、と思った。

 ギシギシするパイプベッドの上に乗り、さっきまでの状況を思い返すことにした。 彼女とは帰り際にメールアドレスを交換した。それが僕になにかをもたらすのは彼女次第だった。僕はあまり、そうがっついて女性に関心を示す人ではなかったし、声をかけてきた彼女が僕を煮ようが焼こうが、僕はそれに付き合うつもりだ。青春、とは言っていいものかわからない出会いだったけれど、確かに僕は意気揚々としていたし、興奮もしたし、勃起もした。

 彼女の艶かしい唇、官能的感覚を刺激するうなじ、すらっとした体つきに、少し主張する胸。欲望のまま彼女を犯してみたいと思った。

 さっきまでの情景をリアルに思い浮かべ、僕はいきり立った自分の陰茎をしごいた。

 まずは手から、肩、胸、お腹、それから彼女の秘部へと手を伸ばした。彼女が喘ぎ、僕は、そそりたった一物を彼女の秘部へと挿入する。

 それから、サルみたいに、絶頂がくるまで腰を振った。そして、果てた。彼女を手に入れたい、と働かない頭で、思った。僕は眠った。

 

 幸助が来たのは、それから一時間立ってからだった。グレーのシャツにカーゴパンツ、右手にはチューハイとおつまみの入った袋を持って彼は現れた。

 僕の部屋にずかずかと入り、足で、下に散乱している衣類をのけ、どすんと座った。

 なにやらおでこに深いしわを浮かべ、威厳も品性も見当たらない口調で言った。「なんで、お前すぐ帰っちまったんだよ?待ってるって言ってたのによ。おかげで、俺も行き違いになったか心配でずっと待ってたんだぜ」

 怒った声だった。

「いやあ、それについてはすまない。重大な用事を思い出してそれをこなしていたんだ。教授にレポートを渡すのを忘れていてさ。君もそうゆう事あるだろ?」

 カシュッと言う音がし、幸助はチューハイを飲み始めた。

 いつもと同じだ。毎日といっていいくらい彼は、僕の部屋で飲み会をするのが定番になってきている。

 その度色々な焼酎やワインやビールを持ってきて、ここに置いて帰る。今日はチューハイだった。僕はチューハイはなかなか好みだったので、口元がニヤリとしてしまった。二人ともお酒にはあまり強くないので、飲み会ではすぐにつぶれてしまうのだった。

「なんか良い事でもあったのか?目に見えて喜んでるのがわかるぞ」

 僕はにやけていた。なぜなら、今日久しぶりに女の人と長い時間話したし、それからの関係に期待せずにいられなかった所が大きい。

 何も無い。変哲の無い、変わり映えの無い日常に、一つ雫が落ちたように僕は嬉しんでいた。楽しんでいた。

「なんか、気持ちわりいぞ。お前」

「いや、つまり、あの、僕は今日女の人と話したんだ。それで舞い上がっているのかもしれない」

「なに、それは本当かよ。どんな女だ」

「すらっとしていて、顔は綺麗で、なんだかクールな女性だったんだ。僕は読書していたんだけど、急に話しかけてきてくれて、綺麗だったなあ」

「ちっ、もう聞きたくねえよ。女なんて駄目だ駄目だ」

 幸助は大の女嫌いだった。高校生のとき、付き合っていた女に浮気されふられ、それからはもう腫れ物の様に女性に対して接している。男尊女卑の素晴らしさや、女がどれほど汚らしい生き物なのか、逐一ここで演説するのだが、僕は慈愛の目で彼を見つめているだけだった。

 ときより、僕は彼の事をゲイなんじゃないかという疑いを持ったものだが、彼は断固としてゲイじゃないという事を、僕にアピールする。それがまた、疑わしい。女性に対してつんけんどんであるし、何より、僕と一緒にいることへの、明確な答えが他に見つからないからだ。大学へ進んだときも、同じ大学を選んだ、と聞いて訝しげに彼の事を見たものだ。学部は違ったけれど、僕の貞操を彼ごときに奪われてしまってはかなわない。今もまだ注意深く観察しているのである。

 彼はぐびっと音を鳴らした。チューハイを飲む音が聞こえる。ごくごく。紅潮した顔がなんだか気持ち悪く見えて仕方が無かった。

「で、俺の事をほったらかしにして、女と遊んでたんだな。ひでえ奴だ」

「そんな事を言うからゲイだと疑われるんだ。その点については悪いと思ってるよ。でも、いいじゃないか。大学生活で、今、やっと華が咲きそうなんだよ。彼氏はいるかわからないけれど、趣味も合うし顔も綺麗だ。腐っていた、お前と酒を飲み明かす毎日も、そろそろ終わりそうなんだ」

「ああ、そうかい。頑張れよ。女なんて糞しかいないけどな」

 彼はその言葉を最後に寝てしまった。

 やっと終わりそうなんだ。この変哲も無い、退役軍人のホームレスに鼻で笑われるくらい辺鄙な毎日が。

 だけれど、焦る事はない。まだ三年生の6月である。まだ、焦る事は無い。

 彼女の顔が頭にこびりついて離れなかった。酒やゲームをしていても致し方が無かった。

 そこまで、彼女は僕の心に食い込んできた。ただ、小さい話を、いくらかしただけであるけれど、彼女のことはまだ一つも知らないけれど、僕はこのチャンスを逃しはしまいと思った。

 僕は高校生の頃に一人だけ、お付き合いをしたことがある。明るい、えらく活発な女の子であった。僕は彼女の事が好きであったし、満足のいく交際を続けていたはずだった。

 運命というものがこの世に存在するのならば、まさしくそれだったのであろう。偶然に偶然が重なり合い、行き違いになり、すれ違いになってしまった。彼女も最後まで僕のことが好きだったんではないか、と思う。だけれど、運命というものに裂かれてしまえばなんて事は無い。僕らはそれに良いように扱われ、支配され、陵辱されるしかないのだ。

 その損害に見舞われたものは、また次の運命に備えなければならない。それが僕の答えであり、信念でもあった。

 

 それから彼女からの連絡がきたのは、数日後のさわやかな昼下がりだった。

 携帯が鳴り、彼女からのメールが届いて、僕ははやる気持ちを抑えながら文面を読む。

「今日、夜は暇ですか。よければ一緒に出かけませんか」

 簡潔で洗練されたメールだった。

 僕は彼女と、待ち合わせの場所と時間を確認し合い、それからくだらない、単位だけのための講義を受け、日も暮れる頃に僕は精一杯のお洒落をして、デートに望んだ。

 上は青いYシャツに、下はジーンズという普遍的な格好だったけれど、自分で思うになかなか様になっていた。

 待ち合わせ場所の西新宿は初めて来る場所で、人の多さやその都会特有の匂いという物にあてられて、少し意識が朦朧とした。水中の中に潜り込んだみたいに呼吸がうまく出来なくなり、視界がぼやける。人の多さに慣れていないためか、なんとも息苦しい。

 僕は駅のホームで彼女の姿を待った。行き交う人々。サラリーマンや女子高生や婦人が一様に歩いてるのを見ると、蟻の行進みたいに見えた。

 彼女が言った事を思い出す。僕らは蟻のようにひしめき合い、均衡し合い、憔悴して生きようとしている。他人の事には無関心で、協力など皆無で、皆自分の事だけに夢中になっている。この、様々な人たちにも一つ一つの人生があり、家庭があり、求める道がある。それはなんだかとても、滑稽に思えた。僕の考え方や人生観が、歪な形でそこにあるからかもしれないが、僕は彼らの事をとてもうらやましく思えた。満足感の得られぬこの世界で、なんでこんなに頑張って生きているのかと思えた。

 ふと、見ると彼女がこちらに手を振りながら歩いてくる。

 僕も手を上げ、微笑む。彼女は黒いジャケットに短いスカートをはいていた。生足が僕の喉をうならせた。

「こんばんわ。待った?」彼女は言った。「いいや、全然待ってないよ。カップ麺ほども待ってない」

「そう、よかったわ。それじゃあ、行きましょう」

 彼女と一緒に歩き始める。

 なにやら、素敵な香水の匂いが鼻をつく。彼女の全身から漂ってくるみたいだ。とても、素敵な匂いだった。春の野原でたんぽぽの花を嗅いだときの様な、幸福感のある匂いだった。

「バーへ行きましょう。お酒は好きかしら?」

「お酒はあまり飲めないんだ。といっても、缶ビールひとつぐらいは飲めるけれど、そんなアル中みたいに飲めるわけでもない」

「あら、そう。見た感じなかなかいけるクチだと思ったんだけれど。私もあまり飲もうとはしないわ。理性が飛ぶぐらい飲んだら恥ずかしいもの」

「過去に何か、酷い目にあったみたいな口ぶりだね」

 僕は彼女との会話を楽しんでいた。

「そうね、ちょっとね。まあ、それはいいわ。そろそろ着くから」

 

 駅から凄く近くにある場所だった。徒歩三分もしないような場所に、そのバーはあった。

 彼女につられて入ると、薄暗い照明にカウンター席と、テーブル席に分かれた、お洒落な内装をしていた。

 彼女と一緒にテーブルにつく。彼女はとても慣れた振る舞いだった。そこにある物が如く、ぴっちりと枠組みに収まったかのようだった。

 それから彼女は、店員にカシスソーダを頼み、貴方は何にする?と尋ねた。僕は、このような店に入るのは初めてだったし、勝手もわからなかったから、彼女と同じカシスソーダを頼んだ。

 軽快な照明が僕らを照らす。こう言ってはなんだけれど、ピンサロみたいな内装だった。

 ピンサロへ行かず、先にバーという物へ訪れていたなら、ピンサロの感想がバーみたい、となっていたのかもしれない。店員がすぐさま、カシスソーダをグラスで持ってきた。

「ウイスキーもいいものだけれど、あまり好きじゃないの」

 彼女はそう言ってカシスソーダに口をつけた。濡れた唇が僕の性本能を揺すった。

「それで、前はどこまで話したのかしら。貴方が三年生っていう事は聞いたけれど。なりたい物なんてあるのかしら」

「まるで、カウンセリングみたいに君は僕に質問してくるね。まあ、いい。なりたい物も、ならなければならない物も何も無いよ、僕は。それが異常なのか、それとも、夢を持って生きている人が異常なのかは知らないけれど。君はどうなんだい?」僕は訊いた。彼女は答える。

「そうね。私も何も、なりたい物なんてないのよ。そもそも、なろうと思ってもなれるかわからない物に、一生をかけたくないもの。貴方もそうでしょ。それは多分、非常にめんどくさい。例えば、作家やプロゴルファーになりたいと思っても、才能や努力があったとしても確立は低いわけでしょ。それなのになんでそんなものを目指すのかしら。人はなるようにしかならないの。私の持論だけれど」

「人はなるようにしかならないし、なれるようにしかなれない」僕は言った。彼女は納得したようにうなずいた。

「もっと現実的な話だったとしても、例えば、介護福祉士になろうという夢だっていいわ。それは本当にそんなにいいものなのかしら。なってみて、とても厳しい物だったら後悔する事になるのかもしれない。他に楽しい仕事や楽な仕事があったかもしれない。それなのに現実より夢を優先して。私はそうなりたくはないわ」

 僕は考える素振りをして、彼女の言っている事を理解しようとした。だけれど、そこに完璧な主張を見つけることが出来なかった。

「それは、つまり、就職や資格のための努力は無駄だということかな?」

「そんなはっきりは言ってないわよ。資格は持っていれば何かと役に立つし、給料も上がるかもしれない。努力は良い方向へ進む事もあるわ。でも、結局、それって最終的な何かに結びついてるのかしら?努力も就職も途上の産物なだけで、それ以降の結論的な夢、という物が無いと思うのよ。人は、いずれ死ぬし、それって、死ぬまで経験値を上げるゲームのキャラクターみたいだわ」

「わかった。そう言うなら、こうだよ。死ぬ瞬間に、自分が生み出した家族に看取られて死にたいっていう夢を持てばいいと思う」

「貴方は、そうなりたいと思う?」

「全然」と僕は言った。

 

 

 僕が、真っ暗な地の底へ入った時、辺りが急に明るくなり視界が広がった。さも、当然のように彼は、僕が降りるのを待っていた。はしごを降りる。

 周りを見渡すと、窮屈な、横の長さが5メートル程しかない小さなトンネルだった。上にある蛍光灯が、周りの地面をいくらか明るく照らし、前の方を見ると、そのトンネルはどこまでも続いていた。蛍光灯に蛾が二匹ひっついていた。

「ここが貴方の心理の世界であって、世界の終わりへの道なのです。貴方の決心は鈍っていませんか?」彼はそう僕に問いかけた。酷く無頓着で冷静な声だった。僕は頭の中で彼の言葉を反芻した。

 世界の終わり、そんな物に続いていて、このトンネルを歩いていくとそこにあるなんて、僕には到底信じられなかった。

 一概に、世界の終わりというのは、隕石や公害により焼け野原になった街、という情景を思い浮かべるだろう。僕は確かにそうだった。

 だけれど、こんな何の変哲も無い(少し、薄暗くて奇妙な感じがするけれど)トンネルの向こう側に、世界の終わりがあると言われて、誰が信じるだろうか。 

 僕は信じなかった。

 だけれど、今さら、はしごを上って引き返すのも、彼に申し訳ない気がしたし、僕自身もそれを望んではいなかった。

「わかった。君の言う世界の終わりが、本当にあの先にあるのなら、僕は黙って君についていくだけだ。親ガモについていく子ガモみたいに、ただ純粋に」

 彼は、僕の言葉を聞くと微笑み、胸ポケットからピースの銘柄の煙草を取り出した。一本、口にくわえ、ズボンのポケットから取り出したジッポライターで、こだわりのある火の着け方をした。もうもうと、煙草の煙が舞い上がるが、不自然な事にそれは、トンネルの奥から吹いてくる風で分散していく。バージニア産の、バニラ香料の匂いが鼻に付いた。

「おや、煙草は嫌いでしたかな」彼は悪びれるわけでもなくそう訊いた。

「いや、煙草は二年前に辞めたんだ。お金も苦しかったし、百害あって一利が見当たらなかったから」

「よければ、一本どうですかな?記念にでも」

 僕は何の記念になるかわからなかったが、もらうと言った。彼はまたもやこだわりのあるライターの着け方をした。僕は火をもらう。今までの苦労や悔恨を一斉に腹のうちから外に出すように、僕は吸って、吐いた。

 バニラ香料の風味が口いっぱいに広がった。彼は、というと吸い終わった煙草を地面に落とし、足で踏みつけて消した。「僕は、あまり、歩き煙草をする人間じゃなかったんだけれど、貴方は、そうゆうのはかまわない人間なのかな」

 彼は少し目をぱちくりさせて、驚き、それから言った。

「ここでは大丈夫なのですよ。落ちたゴミを拾う清掃員なんてここにはいないし、燃え移る草なんて物も見当たらない。ここに来る人間なんて誰もいない。この場所だからこそ、治安やマナーを気にしなくて良いのです。人は自由に思うことが出来るのです」

 彼の言葉には少し気にかかるこ所があった。だけれど、面倒くさかったので訊くのをやめた。煙草を地面に落とし、足で踏み潰す。

「奥のほうを見てください。そろそろ記憶の窓が見えてきます」彼は言った。僕は意味がわからなかった。

 前の方を見ると、わずかに光っている、ディスプレイの様な物が壁に張り付いているのがわかる。不思議な感覚だった。トンネルの壁に液晶ディスプレイがはめ込まれているなんて。

「あれは、なんだい?」僕は訊いた。

「あれは、今までの貴方の記憶が詰まった窓ですよ。この道で、貴方はしっかりと目を通し、のめり込み、答えをみつけなければいけません」

 なるほど、歩いていくと、ディスプレイだと思っていたのは窓だった。地下のこのトンネルの中に窓があるなんて、不思議だと思った。なんでもありなのかもしれない、この世界は。窓の外に風景が映っている。

 最初に目に入ってきたのは、小学生の頃の記憶だった。学校ではしゃぎまわっている頃の自分だ。黒板の前で居眠りしている。先生に起こされ、ぶつくさと一人ぼやき、また教科書に目を通す。それでも、また、瞼が自然と閉じていく。隣の席の男子に起こされる。うるさい、眠いんだよ、と言って本格的に寝に入る。またもや先生に起こされる。

 情景が変わった。サッカーをしていた頃の自分だ。足が速く、ドリブルも巧かった自分は颯爽と、相手ディフェンダーを抜きシュートを決める。ほれぼれするような見事なシュートだ。決めた自分は、周りのチームメイトにハイタッチをする。 その小学生の頃の映像を10分ぐらいで見終わった後、僕の傍から彼がいなくなっていることに気が付いた。トンネルの何処にもいない。まるで、消えてしまったかのようにいなくなってしまっていた。僕はため息を一つ、つき、奥のほうにある、さっきとは別の窓に目を通した。 これは、中学生の頃の自分だった。色んなことが嫌になり、勉学も部活も全て捨ててしまっていた頃の自分だ。これまた、机に突っ伏して寝ている。先生が注意をする。この頃の自分は、テストも赤点で何事にも打ち込めなった。

 場面が変わり野球部のユニフォームを着た自分がいた。インハイ高めのストレートを、レフト方向に飛ばす。危うく取られるかというところ、うまく抜けて二塁打になる。僕は笑顔で二塁ベースに立っている。

 その記憶は15分ぐらいで終わった。記憶が、今の僕にすさまじい汗をもたらしていた。懐かしい感覚と感傷に包まれ、次は高校生の頃であろうその記憶に向かって歩いた。とても息苦しい……どんよりとした気持ちだった。

 高校生の頃の記憶が、一番重く苦しい事は知っている。僕はその窓を見た。可愛らしい女の子と付き合っている自分。教室で隣同士の席で笑いあい、周りの男達が茶化すように囃し立てる。僕は恥ずかしながら、それでも彼女との会話をやめない。

 場面が変わっていく。クレープを食べる彼女。水族館で笑う彼女。一緒にテスト勉強をする情景もあった。

 最終的に、その窓から、ふられた頃の自分が映っていた。ショックでご飯も喉を通らなくなり、涙が溢れ、後悔の念に満たされているあの頃の自分。

 就職も進学にも興味を示さなく、誰とも会話をしていなかった自分。それでも、なんとか大学に進学でき、夢一杯の希望を持って、笑っている自分でその記憶は終わっていた。

 その奥の窓からは、大学生の頃の自分が映っている。それは今の自分にとって、最大限に心に踏み込む記憶である。

 正直言えば、見たくは無かった。でも、見ずにはいられなかった。そこには貴方との重い出が眠っているから。僕らの全てが詰まっているから。これからの僕の人生を決める物だったから。

 これが世界の終わりへの道であり試練なのかもしれない。

 

 

 彼女との性行為を終え、僕はソファに座り煙草を吸っていた。彼女はまだベッドの上にいて、僕の姿を面白おかしく見ている。可愛らしいおしりと、少し張った胸と、すらっとした足の、産まれたままの姿の彼女はとても色っぽかった。彼女の、ルージュでてかりとした唇が開いた。

「貴方、女性の扱い下手だけれど、もしかして初めて?」

「いや、数えるくらいしか、していないだけだよ。僕はあまりもてないし、出会いも無いからね」

「そう……経験あるのみね」

「君は、こうゆう事は慣れてるのかい? つまり、出会ってまだ一週間もしていない男と、繋がるのは」

 そう訊くと、彼女は立ち上がり、僕の隣に座ってくる。さっきしたばかりだと言うのに、僕の股間が主張を始める。

「女にそんな事を聞くのは、野暮って物よ。貴方のご想像にお任せするわ」

 そう言って僕の肩に頭を置いてきた。とても良い香りがする。

 目線は彼女の首筋へ向かう。首筋にほくろを見つける。とても健康的で健全なほくろだった。僕はほくろを見て、またもや勃起してしまう。

 彼女は僕の股間を見て、それから僕の目を見て言った。

「付き合いましょう。恋人同士になりましょう。その方が二人の為になるわ」

 とても前衛的で突発的な告白だった。彼女の目は、僕の目をみて離さない。透き通るルビーの様な目だった。

 僕は数秒、考えるふりをして、それから彼女に言った。

「いいよ、付き合おう。それが二人のためにも利にもなるだろうしね」

 彼女は笑った。僕も笑った。僕は彼女を抱きしめ、彼女も僕を抱きしめ返した。 テレビから映る政治評論家が日本の軍事について、あることないこと言っていた。そんなものはどうでもよかった。

 彼女がいて僕がいて、それだけでもう全てが明るく見えた。僕の、土砂降りの心に、一点の光が差した。

 

 数日後、彼女を僕の部屋に迎えると、幸助はひじょうに嫌そうに顔をしかめた。彼女と幸助を会わせるのはそれが初めてだった。僕は、彼女と一緒に自分の部屋で飲もうかと思っていたのだけれど、幸助が勝手に部屋に入っていたのだった。

「はじめまして、彼の彼女です。話は聞いてるわよ。幸助君でしょ、貴方」

「いかにも、私が幸助だが。女が来るなんて聞いてないぞ」幸助はそう言い、僕に非難の目を浴びせた。それについては彼が勝手に入っていただけだし、今すぐにでも帰って欲しかった。

「なんでいるんだよ。勝手に入るなよ。まあ、しょうがないし三人で飲むか」僕はそう言い、安いテーブルを、押し入れから出し始める。幸助と彼女は、なにやら自己紹介をしている。買ってきたお酒をテーブルに置き、三人で飲み始める。つまみのピスタチオがうまい。

「話をしましょう」彼女が言った。幸助はうなずいた。

「でも、なんの話をするっていうんだ? 別におたくらの惚気話なんて、こちらは聞きたくないんだけどさ。いつも二人はどんな話をしてるのさ」 

 僕と彼女は目を合わせ、深く考えた。僕は言った。

「政治、経済、人生や性交の話だね。僕らがするのは。でも、そんな堅苦しい話は無しにしよう。幸助は今日講義あったのか?」僕は訊いた。

「ああ、一、二、三限ともあったさ。講師に尻尾振りまいて、単位もらうのに必死だよ。お前らはなんだ?何処へ行ってたんだ」

「美術館だよ。ルネサンス後期の絵画が展示してあるって見に行ったんだ。とても楽しかったよ」

 幸助はうん?と唸った。

「お前、美術とか、そうゆう類の物って好きだっけか?」

「いいや、あまり興味は無いけれど、好きか嫌いかで言えば好きだよ。芸術とかは見ていて美しいし、心が洗われるし、なにより、何か大切なものに触れられる」僕は言った。彼女が口を開く。

「美術館には私が誘ったの。私、大学で美術を専攻しているから。それをレポートに書き記して、提出しないといけないのよ」

 なるほど、と幸助は言った。

「それで、楽しかったのかい?」

 僕ら二人は口を合わせてまあまあと言う。

 彼女との思い出を作れるのは嬉しかった。初めてのデートはまんざらでもなかった。

「ああ、惚気話は嫌だね。まあ、明日にツーリング行って気を紛らわしてくるよ。彼女なんていらねえや」

「バイクを持ってるの?本当に?」

 彼女が興味を示した。バイクが珍しいみたいだ。

「ああ、持ってるよ。なんだ?乗りたいのか」

「ええ、是非とも乗らせて欲しいわ。いや、ええと、ごめんなさい」

 彼女は僕の方を見て謝ってきた。僕が嫉妬に浸っているのに、気が付いたみたいだった。

「バイク乗らせて欲しかったんだけれど、彼氏の前で言う事じゃないわね。失礼」

「いや、僕が乗せていくよ。大丈夫、免許は無いけれど乗り方は知っているし、たまにこいつの借りて、遠くまで行く時あるから」

 彼はまた非難した目で僕の目を見てくる。仕方が無かった。彼女が乗りたがっているのだから。そして僕にはバイクが欠けていたのだから。

「いいの?」

「しゃあねえなあ、俺のバイクに女を乗せるなんて考えもしなかったが、別に良いや。しゃあねえ」

「ありがとうよ。今から行く?」

「ええ、是非とも」

 彼女は乗り気だった。まだ、午後7時にも満たなかったので、なにかと余裕があった。

 

 彼女がバイクの後ろに乗り、僕は前の方へ乗る。

「ありがとうな、幸助」

「いいけどよ、事故ったら承知しないからな」

 僕はエンジンをふかす。ブオンブオンという音が鳴る。彼女の顔は、ほころんでいる。そして、アクセルをかける。

 彼女はわあ、と驚いたような声をあげる。彼女が抱きしめている、僕の腹部がもっとしまる。

 僕は走り出した。住宅街や田んぼ道を颯爽と駆け抜ける。彼女は喜んでいるようだった。初めての体験に。

 崖の急カーブへと差しかかる。それを、速いスピードで曲がっていく。少し、自分も怖かった。

 だけれど、彼女に良いところを見せようとスピードを落とさなかった。

 ヒュンヒュンと、周りの景色が変わっていく。遠いところに砂浜が見えた。あれが僕の、いつもいく特別な場所であった。

 

 僕はバイクから降り、涼しい夏の夜に少し、身震いしながら彼女に言う。

「いつも、この場所で水平線とか見てるんだよ」

 彼女もバイクから降りる。輝かしい目をして、海のほうへ向かって歩いていく。僕は後ろから彼女を追う。まるで、海の中に吸い込まれていく彼女に、手を伸ばすかのように。海からの冷たい風が頬を撫でる。

 彼女と僕は隣り合わせに砂浜へ座った。小さな波がゆうゆうと動いているのが見える。彼女の目は遠くの水平線から一点も動かないようだった。それから5分も経たないうちに、彼女の口が開いた。

「夜の海って、こんなに綺麗な物なのね。少し、怖いところもあるけれど、とても、心地良いわ。神秘の世界にいるみたい」

 空は雲ひとつない。その代わり、多数の星が僕らの姿を照らしている。月も、僕らを照らしている。この世界に、僕ら二人だけしかいないような安心感だった。 波の音と、後方の森林から聞こえる虫の声だけが、空間を支配していた。僕らは目を合わせる。少し、はにかみながら

「あのね、私ね」

 彼女が真剣な顔をして話し始める。

「親が片親なの。私が生まれた頃くらいに離婚したみたいで、とっても、ヒステリックで、怒りっぽい母親で、小さい頃は暴力を受けない日なんて無かったくらいに。毎日怯えて過ごしていたの。家も貧乏だから、それに色々不満がたまって。通信制の高校に通って、色々な人と付き合って、別れて。経験した男は数えてないけれど、30は越すんじゃないかっていうくらい。とても汚い女なのよ、私」

 僕は彼女の告白に大層驚いた。驚いてから、僕は喉を鳴らし、彼女の言葉の続きを待った。それから数分経ってから意を決したかのように彼女は言った。

「こんな、私でも、付き合っていてくれますか?」

 彼女の瞳に、涙が見えた気がした。この綺麗な景色と、センチメンタルな雰囲気に、彼女は当てられたのだろう。

 僕は、笑って、それから彼女を抱きしめた。触れれば壊れてしまいそうな彼女の肩を、極力強く抱きしめ、僕は彼女の事について考えた。いままで、辛いことがあってきたであろう彼女の過去を。色々な男と性行為をする彼女を。それでも、満たされない彼女の事を。

 これから、僕が彼女に何かをしてあげられるか、という問いに僕は沈黙した。わからない。僕は彼女に何をしてあげられるんだろう。いったい何をすればいいんだろう。

 僕も数多くの男達とおなじく、辛い過去として流されていくのだろうか。そんなのは嫌だった。そんなのは嫌だ。

 答えは無いけれど、これが運命だというなら、僕は運命に引き裂かれるまで、彼女の傍にいようと思った。見捨てられるまで傍にいようと誓った。

「僕は、離れないよ。君のためなら、なんでもする。辛い過去も全部受け止めるから、一緒に生きていこう」

 まだ、付き合って間もない男女間の会話だとは到底思えなかった。

 だけれど、時間なんて無意味なもので、僕はこの時、彼女の全てを受け止められる気がした。彼女との人生を歩める気がした。

 遠くで鳥の鳴く声が聞こえた。胸の中では彼女の泣く声が聞こえた。

 

 

 大学での記憶を見終わった後、しばらくの間、僕は頭がからっぽになったかのように、その場で立ち尽くしていた。蛾が二匹、蛍光灯の近くで遊んでいるのを視界に捉えながら、僕は何かを考えていた。だけれど、本当は何も考えてなどいなかった。彼女との思い出に、僕はひどく心を痛めた。精神に異常をきたした。

発狂してしまいそうな頭で、パニック寸前な頭で、こつんこつんと、後ろから聞こえてくる足音に意識を戻した。

 さっきまで何処かへ行っていた彼が、後ろから歩いてくるのが見えた。

「これが、世界の終わりへの最後の記憶です。どうでしたか。貴方は随分、憔悴しきっている顔ですね。とても、酷い顔をしている。この世の絶望を一身に抱え込んだかのような、とても酷い顔をしている。だけれど、まだ終わりではないのです。この道を、あと数歩も歩けば見えてきます、行きましょう」

 狼狽し、がくがくと震える足で、彼の後を追った。広い背中がおぼろげに目に映る。その奥、トンネルの奥には輝かしい光があった。

 僕は一歩、一歩と確かめながら足を踏み出す。彼は光の中に消えていった。影も見当たらない、光の中へ消えていった。僕は光の中へ足を踏み出した。

 これがリアルだと言うのなら、これが世界の終わりだというのなら、甘んじて受け入れよう。これが運命だというのなら、僕はそれに従うしかないのだろう。それが罪や罰に侵された、僕の最後の決意だった。

 

 

 朝が来た。窓から直射日光が、しゃんしゃんと顔に降り注いでいる。

 僕は、体を起こし、いつもの日課を始める。まず、エリック・サティの作品集をかけ、パンをトースターに入れ、珈琲を淹れ始める。

 長い夢を見ていたみたいだ。頭がガンガンと痛む。何錠も飲んだ、向精神薬のおかげで、頭がハッピーになっている。とても、軽快で清廉潔白な朝だった。

 出来立てのトーストにジャムを塗り、食べ始める。食べ終わったら珈琲を飲む。優雅な朝の日常は、僕にとっての精神安定剤かもしれなかった。

 今日は、チャイムが鳴らない。今の僕には、この世界に絆や繋がりなんて物はなかったから、鳴ったところで、出はしないのだけれど。

 テレビをつけると、朝の占いコーナーがやっており、僕のてんびん座が今日は一位だった。心がうきうきとした。

 リビングを出て、寝室の扉を開ける。人肉の腐乱臭がする部屋で、落ちているワイシャツを手に取り、寝室から出る。

 出る瞬間、視界の隅に妻の死体が映った。それはそのままでいい。

 また、ソファにすわり、一通りニュースを見てから、テレビを消す。エリック・サティの作品集は終わったみたいだ。 僕は準備を始める。ワイシャツに着替えてから、ネクタイで輪っかをつくり、天井に吊るして、イスを置く。イスに乗り、輪っかに首をかける。喉が鳴る。首のちょうど収まるところに調節して、僕はイスを蹴り飛ばし、死んだ。

 

 

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