駅のコックス

 

 僕は今、電車に揺られている。その揺れは、座席に座った僕を交互に横へと反復運動させる。そして、その胸の中すら、揺れさせている。不安や恐怖、倦怠感、そんな気持ちが大渦巻の様に僕の胸を駆けている。その渦巻は僕の中のぐしゃぐしゃを、たまにぴったりと嵌めて、またばらばらにして、欠片一つ一つの名前などわからなくなるくらいに僕の胸の中を駆け巡る。

 なんていう気持ちなのだろうか?

 簡単に言えば、言葉に出せば、「行きたくない」、「生きたくない」、「逝きたくない」、そんな風の感情だ。

 もう、4時間以上電車に揺られている。最初はゆったりとした、小奇麗な新幹線だった。それから、地方独特のあの牛乳で洗ったドブネズミの様な臭いに包まれた。黄色の塗装がはがれかけている吊革も、所々カバーの切れた座席も、年中曇っている窓も、充実を感じていない様な車掌の目も、この臭いも、青森の田舎の電車が漂わせる摩訶不思議な電車内の光景なのだ。

 その電車は凄く陰気だった。いる人々は、誰もが精気を抜かれたように、虚ろな目で新聞を読むか携帯を弄っている。外の風景など誰も見ない。誰もが飽き飽きとしているのだ。この、草原やたまにある田んぼの、永遠にさえ続くような風景など。

 それは、そうだと思う。なんら変わり映えのしない風景を見続けるのがどれだけ大変で、面倒くさくて、心に応える事なのか、子供でさえ知っている。上手い例えが見つからないが、子供でさえ知っているのだ。

 

 僕は外を見ていた視線を前に戻した。地方の痴呆の爺が、さっき雄たけびを上げながら眠った所だ。戦争の終わった後の時代は、なになにが良かったとか、ここが悪かったとか、総理大臣の頭が悪かったとか、そんなノスタルジーを僕に話しかけていたのだ。それを気の済むまで喋らせてから、「でも、今は現代ですよ? 適応しなきゃ」と言ってから、彼は声を張って僕の精神や根性の悪口を言って、眠り始めた。今の若者への、偏見だとか、価値観の違いを声を張り上げて言ったのだ。それから、僕は口を挟む事はなかった。

 嫌な気分だ。とても、嫌な気分だ。その老人の事もあるし、これからの事を考えると吐き気がしてたまらない。

 今更、今更だ。何をおめおめと逃げてきたんだろう?

 鬱病になったから? 違う!

 かろうじてあった自信が砕け散ったから? それも違う!

 恋愛に、臆病になったから? それは……

 僕は数々の言い訳を探した。自分の心の中の、ゴミ箱や椅子の下、色んな場所を探してみたけれど、うまく見つからなかった。

 それは、僕の人生においての言い訳だった。二重の意味で、僕の人生の言い訳に過ぎないのかもしれない。でも、言い訳すら見つからないとは、なんと残酷な事なのだろう? 探して、放り投げて、探して、元の所に戻して、探して、見つかった。

 

「人生に疲れた」

 

 僕はこれで行こうと決めた。総合して、そんな言葉がしっくりきた。

 鬱気味な所があるだって? それはそうだ。

 鬱病なのだから。

 電車は揺れる。窓から見える風景がぽつぽつと民家やマンジョン等を遠くに移し始めた。

 

 見知った駅を何個か通り過ぎ、僕は実家の最寄り駅へと着いた。震える足を両手で押さえながら、駅のホームへと渡らなければいけなかった。

 怖い。怖い!

 数時間後にくるであろう、自分への失望や落胆や感嘆の声、罵詈雑言の嵐に身体は震えている。それは決して寒さゆえの震えではなかった。誰もが僕を疑問視しながら通り過ぎていく。その、痴態に僕は顔を赤らめながら、改札を抜け、外に出た。

 陰惨を示した灰色の雲が、空をいっぱいいっぱいに覆っている。その灰色はオオカミの灰色でもなく、煙草の灰の色でもなく、雲が織り成す一種異様な灰色だ。太陽はその陰惨さに怯えたように姿を隠している。それでも、雲に遮られいくらか光度を失った満面なる光が、地上に降り注いでいる。それは、一つの古びたタクシーの窓を照らし、バス停の路線図を照らし、閑散な商店街を照らし、僕を照らした。空は今にでも雨が降りそうだ。カラスが一羽、ネズミを咥えながら飛んでいくのが見えた。僕の未来を示唆しているのかもしれない。親というカラスに僕というネズミが殺されるのか、それとも責任というカラスに僕というネズミが殺されるのか、まだ不明であった。

 ここから、徒歩一時間程の所に僕の実家はある。タクシーを使えばいいのだけれど、僕にはお金という物があまりなかったから、徒歩で行こうと考えた。それはそれは、険しい田舎道を抜けるのだ。タクシーの運転手が車に寄りかかりながら煙草を吸っているのを見て、僕は自分が煙草を猛烈に吸いたくなっている事に気が付いた。なんでだろう? その、運転手を見るまでは全然そんな気なんて無かったのに……。

 僕は胸元からビックのライターとエコーを取り出し、一本に火を点け、吸い始める。煙草の煙が灰色の雲に交わろうと上に登っていく。ヤニクラに頭を空っぽにしながら、閑散とした商店街を見る。そこに真新しい店があった。木造りの大層な二階建ての店だ。こんな寂れた街になんで今更こんな建物があるのか知らない。「駅のコックス」と書かれている。なんとも妙な名前だ。狐の伝染病と駅のコックをかけている。本当に、妙な名前の店だ。名付け親は大層なギャグセンスを持っているのかもしれない。少し、その店に興味が沸くじゃないか。青森にも狐はいるし、駅の真ん前にあるその店はなんだかとても当てはまっている気がした。

 煙草を地に落とし、靴底でもみ消してから、その店にへと入った。

 

 ちりん、ちりんという音が鳴る。木製のドアを閉めるとき、その新品さを僕に誇示するかのように、スーッとドアは閉まる。少し、いい気分だ。この店は何の店なのだろう?外観からは飲食店に見えそうでもあり、見えなそうでもある。メニューが外に無かったからだ。でも、6つ程の、しきりがあるテーブル席があるのを見た時、僕の見当は間違っていないことに気が付いた。周りを見渡すと、壁には有名人のサインやサインボールなどが飾ってある。親父臭さが全開である。こんな新築にサインボールは無いだろ……と思った矢先、僕に気付いたウェイターが近寄ってきた。

 女性のウェイターだ。年は18から20くらいか? 茶髪にショートカット、ピアスが二つ付いている。僕の好みのタイプだ。僕は彼女に恐る恐る問いかけた。

「この店はなんなんです?」

 彼女は不思議そうに僕の顔を見た。真っすぐな瞳だ。その瞳に僕は吸い込まれそうになる。5秒の間、僕たちは無言だった。そして、彼女は言った。

「先日、オープンしたばかりの喫茶店ですよ。私のお父さんが経営してるんです」

 僕は尋ねた。

「なんで今更こんな場所に建てたんですか? 人もあまりこないでしょうに」

 彼女はむっとしたように頬を膨らませた。

「元々、違う人がオーナーだったんですけど、病気療養中なのでお父さんが代わったんです。その人が言うには、寂れた商店街を活気づけたい為に始めたらしいですよ」

「そうかそうか」と思いながら、僕は席に着く。彼女は真新しいコップに水を入れて持ってきてくれた。慣れていないしぐさがとても僕の好感を買った。

 僕は煙草を咥えながら、彼女に尋ねた。

「メニューはどこにあるんだい?」

「あっ……」彼女は慌ててキッチンに行き、メニューを持ってきた。とても可愛らしい。

 僕はメニューを受け取ると、見分した。

 悩んだ末に決まった。

「アイスコーヒーとオムレツを一つ」

「わかりました」彼女はそう言い、キッチンにへと戻っていく。

 

 入ってみると中々居心地のいい店だった。店内も綺麗だし、テーブルにはメニュー以外はあらかじめ用意してあるし、シャンデリアも美しい。そのくせ、店員は結構美人ときたもんだ。

 これから、僕はこの店の常連になるのかもしれないのだ。おそらくは、ならざるを得ないのだ。

 

 僕はバンドをする為に、この青森から東京に出ていった。4年前の事だ。その夢を親父は猛反対した。出ていくとき、親父は「もう勘当だ!お前なんか知らん!」と大声で怒鳴り散らした。それから逃げるように僕はいそいそと東京に行ったのだ。

 東京の生活は悪くなかった。物価も高いし家賃も高いが、その分の充実さを僕にもたらしてくれたのだ。都会の喧騒や煌びやかな光、そんな思い出がたくさん溢れる。

 バイト先で友達もできたし、なんと彼女もできたのだ。それはとても良い生活だった。友達とバンドをやりながら朝まで飲み明かしたし、彼女とも3年間付き合っていた。僕の人生の幸せの頂点だった。何事も万事上手く行っていたように見えた。

 彼女にフラれるまでは……。

 

 コトっという音に気が付けば、女性のウェイターが隣にいた。アイスコーヒーとオムレツを持ってきたのだ。僕は「ありがとう」と言って、アイスコーヒーに口をつけた。

 美味だった。こんな田舎なのにコーヒーだけは旨い。

 手をこすりあわせて、オムレツにかかる。スプーンで一口大に切り、口に運ぶ。

 美味だった。こんな田舎なのに、オムレツがうまいのだ。

 僕は大層この店を気に入った。行きつけの店候補1として登録しておこうと決めた。

 

 オムレツを食い終わると、僕はまたもや考え事に深け始める。

 

 親父はなんて言うだろうか? このボロボロになった俺を見て、路上で死んでるスズメを見るみたいに見つめるだろうか? それとも、寒さに凍える野良猫みたいに抱きしめてくれるのだろうか?

 どっちにしても僕は嫌だった。こんなボロボロになった僕を両親に見せること自体かけがえのない羞恥であるのだ。

 今更、おめおめと、勘当されまでされているのに帰ってきたなんて……地元の友達にはなんて言えばいいだろう?

 

「ここ、いいですか?」

 僕はおぼろげな目でその声のする方を向いた。先ほどのウェイターが私服になって目の前にいる。コートにジーパン、マフラー。

 僕は少し驚いた。それから、「あ、ああ。いいよ」と言った。彼女はその言葉を待っていたように向かいの席に座った。これが田舎独特の親しみやすさなのだ。

「働かなくていいの?」僕は訊く。

「30分休憩中なんです。今、お父さんが私の分のナポリタン作ってるとこで、なんかお客さん暗そうな顔してたから同席したいなって」彼女は言った。

 僕は彼女の目を見つめる。素敵な目だ。あと5歳ぐらい若かったら惚れていただろう。

「お客さん、ここらへん出身ですよね?」

「うん。そうだけど? なんでわかったの?」

 彼女は笑いながら「だって顔が田舎っぽかったから」と言った。

 僕は少しむっとしたけれど、これが田舎のフレンドリーさという奴なのだ。人に興味が絶えない街なのだ。話し込めば家の前で何時間も立ってる土地柄なのだ。

「君は、そうだね。結構綺麗に見えるけど、田舎の顔立ちは隠せてないよ。化粧でごまかしてるみたいだけどさ」

「えっ、嘘?」彼女は驚いた。

「……東京から来たんだ。それで、いろいろ僕にもわかる」

「そうなんだ……」と言って彼女は肩を落とした。僕は失礼な事を言ったかなと思ったけれど、先に言ってきたのはそっちだったのだ。しょうがない。

「なんで、あんな暗い顔してたの?」

 彼女は言った。

「うーん、それは言いづらいな。君にも落ち込むときはあるだろうし僕にも落ち込むときぐらいあるさ。猫にだって鬱な時があるかもしれないし」

「ねこにさえ」

「そう」

 僕は言った。

 

 それから、その喫茶店を出て、閑散とした商店街を歩き始めた。パチンコ屋に人が大勢入っている。そのほかは靴屋、肉屋、魚屋、もうシャッターが閉まった一群だ。僕は感慨にふける。僕が小さい頃はシャッターも上がっていて、店主らが大声でお客を呼んでいたっけ?

 そんな悲しさを覚える。とても、楽しかった日々だ。

 

 前から12歳ぐらいの少年が歩いてきた。ヤンキースの帽子にジャケット、ジーパンという格好だ。人通りの少ない道だったから、その姿は嫌に目立った。

 僕の目の前まで来ると、その少年は何故か僕に手のひらを出した。何かをくれという事なのだろう。僕は胸ポケットに入っていたハッカ飴を彼の手のひらに乗せた。

「こんなもん食えるかよ、頭弱いんかてめえ」彼は言った。

 そして過ぎ去っていく少年。道端に落ちたハッカ飴。僕は悲しんだ。

 

 商店街を抜け、田んぼ道へと入った。虫の鳴く音が聞こえ、砂利道がじゃっじゃっという。その音が40分ぐらい続くのだ。風景も変わらずに。

 僕は気が狂ってしまいそうだった。延年と続くこの風景と音に僕は退屈を感じて、色々と物憂げに考えてしまうのだ。

 

 東京で知り合った彼女は、名前を遥といった。黒髪のロングで几帳面な性格。僕とは真逆の性格だった。都内のバーで知り合い、そのまま行きずりに家まで連れて行ってしまい、付き合うことになった。

 同棲はとても楽しい時間だった。安アパートの音は隣人に聞こえているか疑問だったが、盛大にいちゃいちゃをしていた。

 三年が経ったある日、「好きな人が出来たの」と言って彼女は去ってしまった。三年という時間で蓄積されていた彼女への愛が一瞬にして砕け散ったのだ。

 それから、僕はバンドにも身が入らなくなり、バイトも休みがちになり、医者へ行ったら鬱病の気がありますねと言われ、実家に戻ってきた次第だ。

 

 そんな事を歩きながらずっと考えていたら、涙が出そうになった。過呼吸が始まった。

 僕は耐えなきゃいけないのだ。このリアルに。

 

 実家の庭には愛犬のヤマトがいた。僕の姿を見ると興奮したように尻尾を振りながら柵の前まで近寄ってきた。おお、よしよしと頭を撫でてやると尻尾の動きが尋常じゃないほど交互に揺れる。

 

 それから、僕はインターフォンを押すか押すまいか迷った。今更なんて言ったらいいんだ。「ただいま」か? 親父が出たらどうしよう?母なら少しは理解があるが親父だと大変だ。

 そう思って悩んでると、玄関ドアが開いた。

 母親だった。

 母は僕の顔を見ると目をしばたたかせた。それから、口角がいやに曲がり頬に笑みを浮かばせると僕の名を呼んだ。

「かずき! どうしたの!?」

 僕は頭をさすりながら答える。

「いや、たまには実家に帰ろうかなと……」

 僕は言ったのだ。口からのでまかせを。

 母は笑顔で僕を迎え入れてくれた。懐かしいこの玄関も家の内観も、全然変わっていない。センチメンタルさにすら浸れる。

 リビングへ行くと、不思議と父の姿が無かった。いつもならこのソファーでテレビなんかを見ていたりするのに(それも四年前の記憶だ)、不思議といないのだ。その通り、家にも親父の気配というのがまったくしなくて、僕は困惑した。

 僕はソファーにへともたれた。実家の素敵な匂いが漂ってくる。懐かしさに胸をこみ上げる不思議な感情を抑えながら僕は訊いた。

「お父さんは?」

 母は言うか言うまいか逡巡したけれど、僕の真っすぐな目を見て諦めたように息をついた。

「お父さん、今病気なの」彼女は言った。

 僕は驚愕する以前に疑ってしまう。あんな元気な父が、病気になんてかかるわけないと信じていたから、疑ったのだ。でも、母の悲しそうな顔に僕は胸の中が複雑に渦巻いた。ほっとした面も、心配する気持ちもあったから、複雑だった。

 なんで、なんで、という気持ちが遅れてやってきた。

 僕は怒られる覚悟をしてきたというのに、なんで病気にかかったんだ。なんていう病気なんだ?

 そんな心の声が胸中に響き渡る。

「肺ガン……なの」母は言った。

 僕はそれを聞いてやっと驚愕した。あんなに怖かった団塊世代の父がガンになっているという事に。

 小さい頃の記憶がよみがえる。学校を休みがちだった僕をひっぱたく彼の姿。友達にすら張り手をくらわしたあの強気の性格。顎に蓄えた髭がその存在感を放っていた。

「病院は何処なの?」僕は訊いた。行くつもりだったからだ。まだ午後4時に満たないので、面会は大丈夫だろう。

「近くの、〇〇病院……あたしも行くわ」

 

 それから僕は親父の軽トラにお母さんを乗せて、病院へと向かった。道は砂利で、軽トラはガタガタと揺れた。今日の僕は揺れっぱなしだ。電車でもこれでも、心の中の揺れが反映したように揺れている。軽トラの匂いは煙草クサかった。灰皿には吸い殻が溢れるほど溜まっていて、それが僕たちの服や体に匂いを付けさせるのだ。懐かしい安たばこのにおい。こんな吸うからガンにでもなるのだろうとは思う。もう医者から止められているであろう煙草を、息子の僕が吸っている。なんと皮肉な事だろう? 僕もいつか親父みたいに肺がんになるのだろうか?

 僕は自分の身を案じた。それでも、煙草はやめられないなあと思った。

 

 病院につくと、母に連れられるまま父親の病室へと向かった。通り過ぎる人々は誰もが病気を抱えてそうな憂鬱な顔をしていて、車いすの老人などが僕の姿を興味深そうに見た。

 

 佐倉、その病室にはそう記載されていた。僕の苗字だ。さっきまで実感がわかなかった、父親が入院しているという事の真実を目の当たりにして、僕は唖然としたのだ。

 病室に入ると、親父の姿が見当たらなかった。その病室にはやせ細った老人しかいなかったからだ。

 でも、母はその人のそばにへと向かっていった。

 まさか! と思った。まさか、まさかそんなはずは……。

「お父さん、息子の和樹がお見舞いに来てくださいましたよ」母は言った。

 僕の方にへと視線を移すその老人は、年齢でいえば70~80くらいに見えた。青白い肌、虚ろな目つき、禿げた頭、そんな老人が僕の父なわけないだろう? 僕の父親は60歳で顎に蓄えた髭に小太りな身体をしているのだ。

「和樹……久しぶりだね」その言葉で僕は泣きそうになった。こんなになってまで、生きているのだ、この人は。その声は昔から聞き覚えのある声なのだ。口調が昔とは変わっているが、確かにこの人は僕の父親だった。

「親父……」僕は涙を溜めながら彼のそばに寄った。もう、何も言えなかった。考えられなかった。彼のそばで声に出さず思いっきり泣いた。父と母は慈しむ様に僕を見ていた。

 

 それから母は何処かに行って、男同士でいろんな話をした。大抵は僕の東京での生活の話だった。友達もでき彼女もでき、順風満帆になっている所で僕は言葉を止めた。

「そういえば、親父はここに何年いるの?」僕は訊いた。

「二年前からだ。その前は奮起して店を立ち上げていたんだ。ほらっ、駅前に立派な喫茶店があっただろ?」ゴホッゴホッと咳をしながら親父は言った。僕は心配そうな目で、父の言った言葉を繰り返し考えた。

 駅前の喫茶店……。

 まさか、あの先ほどは言った店親父が作ったのか? あの女の子もオーナーが病気療養中と言っていたし。

「あの、駅前の新しい店?」

 父は頷く。

「そうだ。お前、いつ東京に帰るんだ?」

 僕は言葉に詰まった。言葉が出てこない。

 言ってしまっていいのか?

 それすらわからなかった。今の親父はきつく叱ることはしなさそうだし、言ってもいいのかもしれない。

 でも、今日中ずっと考えていた、今更という言葉が頭の中を離れない。

 今更……。

 

「親父、俺、ここに残るよ」

 父は安心したように笑った。

「そうか、俺が死ぬまでここにいてくれたら嬉しいんだけどな」

「そんな縁起でもない事……」

 

 僕は臆病だった。鬱病の事をひた隠しにして、父に嘘はついていないと本心から思ったからだ。

 いつかはバレるかもしれない。新しい仕事をしたときに、また、辞めてしまうかもしれない。

 親父が死ぬまで、心配はかけたくない。そう、思った。

 

「よければ、俺の店で働かないか?どうせ次の仕事なんて決まってないんだろう?」

 僕は驚いてから、視線を窓にへと移し、また、親父に移した。どうしようか迷っていた。大いに好都合だったが、また、泣きたくなる衝動に駆られたらどうしよう?

 でも、そんな事を言っていたって、いつかは働かないといけないのだ。

「わかったよ、親父の店で働く」

 僕は言った。

「わかった。店長の卯月さんに言っておこう」

 

 そうして、僕は駅のコックスで働き始めた。最初はオーナーの息子という事であの、店長の娘には驚かれた。

「猫の人! まさかオーナーの息子さんだったなんて!」と彼女は驚いた。

 そして、店長の卯月さんには優しく教え込まれた。それが僕の精神的には良かったのだろう。

 

 「駅のコックス」は今日も営業中だ。

 

 

 

 

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