宇宙猫とボク
午後6時、僕は時計を見ていた目を外にへと移した。夕闇に包まれた外は、誰もがかくれんぼしているみたいに閑散としている。沈黙の勧告が出てるみたいに静かで、無音のカノンが響いている。空には月が幾重もの雲で陰り、星たちが所々でその存在感を現わしている。
僕は本へと目線を移す。
「海辺のカフカ」
僕は昨日、父親の書斎でこの本を見つけ、なんとなく読んでみたのだ。そうしたら思いのほか嵌ってしまい、昼、起きてからずっとこの本に熱中している。目が疲れてきて、床に俯せに寝転がって読んでいるから肘が痛い。それなのに、僕はその本を読み続ける。まるで、その本に誘惑されているみたいで、少し困惑している。不思議だ。この本の作者は全然知らないけれど、その本はとても魅力的だった。その本がどんな著名人達に批評を受けていようと、僕はこの本が好きになってきている。7時半の夕飯までに時間がある。そう思って、尚も読み続けている途中の事だった。
激しい音に家全体が揺れた。僕の胸の中は不安で渦巻いた。
これから何が起きるんだ? そんな気持ちになったのだ。まるで世界の終焉の様な地響きに僕は心底恐怖した。
食器類の割れる音。電気用品の壊れる音。大きな家具が倒れる音。その後に、階段を無我夢中に上がってくる足音。
僕の部屋は二階の突き当りの部屋である。その足音が僕の部屋の前まで全速力で来たのだ。
その恐怖をなんと例えればいいか、僕にはわからない。形容しがたい種類の恐怖だ。
僕は本を読むのをやめて、部屋の明かりをすぐさま消し、部屋のドアに意識を研ぎ澄ました。
大丈夫だ。鍵はかけてある。誰も僕の平穏を遮ることなど出来ない。そう思い余裕をかましていたのだが、その余裕の表情と、不安と恐怖感が一つの音で吹き飛んでしまった。
なんと、僕の部屋のドアを蹴り破ろうとする音。それからドアノブを回す音が響く。けたたましい母親の声。
「てめえ! 鍵なんかかけてんじゃねえ! 出てこいやぁ!!」
母が怒鳴る様に喚き散らしたのだ。
こう言っては何だけれど、僕がふと先に思ったのが、近隣住民への騒音被害だった。家は木造だし、母の怒鳴り声は格段と大きい。でも、それからまた考えた。どうせ僕はあまり外出はしないんだし、他人に何か言われることもないだろう。それは、母が原因であって、母が後々謝るべき事柄なのだ。
尚も僕の部屋のドアをぶち破ろうとする音。まるで、昔観た映画に出てくるジャック・ニコルソンみたいだなと思った。彼と違うのは、母が女であることと斧を持っていない事だ。それ以外は全て状況としては同じだ。このまま行けば、あの恐ろしい顔で斧を振り回すのだろうか?
僕はやれやれと思った。
それから、観念した。
どうせ僕が部屋から出なかったとしたら、母は懸命に部屋のドアを開ける方法を考えるだろう。それこそ、斧でぶち破ってくる可能性もゼロではないのだ。
だから、僕は観念した。
「お母さん、今開けるよ」
僕は立ち上がり、夕闇に包まれた部屋の中、ドアの前まで行ってそう言った。
「早く開けやがれぇぇぇぇ!!!」
その怒気溢れるさまに本能が危険信号を出していたけれど、それをなんとか抑え込み僕はドアのカギを開けた。
瞬間、母が部屋に入ってきた。顔は茹蛸の様に赤く、息は途切れ途切れになっている。
母はまず、僕の部屋を見渡し、それからそこにある淀んだ空気さえも見渡し、僕の顔を見た。
「てめえ!!」
その次に、耳鳴りの様な音がした。
僕は一瞬何が起きたかわからなかった。
その次に、まさか、と思った。
まさか、そんなわけがない。
でも、この頬の痛みは本物だった。感覚が暴走しているわけじゃない。確実に、僕の頬は痛みを嘆いている。
母の、荒々しく吐く息の音が聞こえる。
「てめえのせいでこっちは大恥かいたんだよぉ!!」
母はまたも怒鳴る様に言った。
「お母さん……ごめんなさい。何があったんですか?」
僕は冷静を装うようにしていたけれど、震える声は確かに怯えていた。
「てめえの担任がさっき来てよぉ、お宅の息子さんちょっと病気なんじゃないですか? 遺伝子的に何か問題あるんじゃないですか? とか言われてよぉ! てめえのせいだ!! この!!」
またもや耳鳴り。遅れてくる痛み。初めて母親にはたかれた事に、僕はどうしていいかわからなくなった。
再び、振り上げる手に僕は当然の事として顔を庇う様に両手で防御した。僕は当然の事として、両目を瞑っていた。
僕は何度も何度もはたかれている間、目を開かなかった。母の声が止み、ドアが閉められるまで目を開かなかった。母が出ていった後、僕は目を開いて、部屋を見渡した。もう暗くなっていて、布団もベッドも椅子も机も、何もない僕の部屋に薄く月の光が照らされている。それは窓から、さっきまで読んでいた本へと差し込んでいた。月を見ようとした。相も変わらず雲に隠れ見えない。
「家出しよう……」
そう呟いた。
それから持ち物なしにひっそりと玄関から出て、僕は静かな夜の住宅街を歩き始めた。5月の風はぬるく、今の僕のGAPのパーカーとジーパンでは寒くはないが、それを凌駕する程の心の寒さに震えていた。寂しさ、怒り、その他諸々のどれでもない感情が僕の胸を凍えさせていた。比喩でも表せない種類の寒さだ。
母は、嫌いではない。いつも夕飯を作ってくれることには感謝していた。僕に無関心なのも母なりの生まれつきの人格としての欠損か、結婚生活に様々な、母性の欠陥の原因があったと思うので、それすらも僕は許容していたのだ。
だけれど、今回のは思いのほか酷すぎやしないか? 僕はそう思った。仮にも、息子である僕に対しての言葉遣いではなかったし、暴力的な面でも団塊世代の様な張り手だったのだ。
僕は、母のあの行動に、段々とムカついてきた。怒りが沸いてきた。
遺伝子的に問題があるだって? その通りなのかもしれない。母のヒステリーは本当に酷いし、それの根本的な理由が僕には見当たらなかったから、僕達家族は遺伝子的にどこかおかしい所があるのかもしれないと、そう結論付けた。
そう思っても胸の内から沸き上がるこの怒りは収まることはない。担任に罵倒されたぐらいであんなに怒ることがあるだろうか? 仕事への不満も鬱憤がたまっていたのかもしれない。
僕の母親はシングルマザーだ。今で言う出来ちゃった婚をし、僕が2歳になる頃、つまり姉が5歳の頃、離婚した。だから、僕は父親の名前も性格も何故離婚したのかも知らないでいる。姉もそれについては触れない方針でいた。あるいは、僕が大きくなった時、母はそれについて話すのかもしれない。
父親がいない事に何の不満も寂寥感もないが、ただ、母の仕事や家事への不満の矛先が僕ら姉弟に向けられるという事がある。仕事の怒りなどが、虐待までとはいかないまでも、物を壊す大きな音となって、罵詈雑言の嵐となって、夜、僕らに降り注ぐのである。だから姉は忍耐強く、僕は内気になったというわけだ。
空き地の電信柱を通り過ぎ、近所の居酒屋を越え、もう閉まっている商店街を渡り歩き、最終的に、僕は何処へ行けばいいのかわからなくなってしまった。
僕は怒りが冷め、憂鬱になり始めていた。
僕は陰気だ。僕は根暗だ。僕は異常だ。痩せこけた身体はまるで戦争孤児みたいだし、窪んだ眼窩はまるで死んだ魚みたいだし、それらの要因と、青白い肌と浮き出た血管が僕の生活習慣を表しているようで、とてもいたたまれなくなる。
その外見によって同級生には、「エイリアン」の俗称で有名で親しまれている(親しまれているというのは、一種の自分への皮肉だ)。僕の母親はそれを意に介さずにしているし、姉には忌み嫌われているに過ぎない。
読書好きで、いつも教室の端っこで、見えない何かから怯えるように、それに、居るはずの無い何かから逃げるように本を読んでいる。そんな自分が好きだった。誰よりも有能で頭が良いと自負していたから(テストの成績は国語以外良くはなかったけれど)、優越感に浸れたし、その優越感の為なら、友達なんていらなかった。普通に授業を受け、テストの平均点をぎりぎり取れるくらいで、大人しそうで少し真面目な小学生だった。
でも、そんな小学生がどのような目にあうか、4年生の頃の僕には到底思いつかなかったし、想像もできなかった。5年生になった時から僕は凄惨な苛めを受け始めた。
別に、最初の頃は良かったのだ。至って平凡な数週間だった。ある日、そのクラスの、身体の大きいガキ大将の落としたペンを、偶然踏んで壊してしまったのだ。
それから、苛めは始まり、最初は、読んでいた本をいつのまにかゴミ箱に捨てられたり、ドッジボールの球を当てられたり軽い物だった。それから徐々にエスカレートしていき、教科書を破かれたり、トイレ掃除の時に水をかけられたりしている。これは母親にも先生にも(彼は見て見ぬふりをしているのかもしれない)、知られていない。
ただ一つ、クラス中の全員が知っている。誰もが嘲笑し、軽蔑し、下に見た。男子も女子も、みんな上から目線の物言いだった。それに僕はむかっ腹が立ったし、それをぶつける対象もいないわけで、僕はどんどん物腰が低くなっていった。
人が怖くなっていった。
臆病になっていった。
それに反比例するように、彼らの態度がどんどん大きくなり、その態度は学年全体、先生にまでも及んだ。
母親はもちろんの事、とある先生は僕の事をなんと「コジ」と呼んだし(戦争孤児を略したあだ名だ)、校長までもが僕を毛嫌いするようになったのだ。
それから僕は、大人を信用しなくなった。シングルマザーの母親も、学校中の職員全員も、たまに家に遊びに来る祖母だって、信用などしなくなった。
僕は学校に行かないで、自分の部屋の中に閉じこもるようになり、本だけを読む生活をしていた。その状況になっても母親は僕を助けてなどくれなかった。
僕は母親を殺したいとさえ思い始めていた。
僕に興味が無いなら、僕は狂気に落ちてやる。そう思っていた。
僕は交番を通らないように回り道をした。別段、これといった目的地があったわけではないのだが、ただ、気分の赴くままに歩いていた。
何時間経っただろう? 僕の足はもう悲鳴を上げていた。体感では二時間以上歩いた気がする。僕は、何処かの町の、住宅に囲まれた一つの専用駐車場へと息を休めた。
一軒家に挟まれた平凡な駐車場だ。そこで、僕は車のタイヤを停めるブロックの一つに腰を下ろした。
過ぎ去っていく風はぬるい。足ががくがくと震えた。
自然と、目線は空を向いていた。雲に隠れた月がおぼろげな光で僕を照らしている。その空を見つめながら、僕は不意に泣き出してしまった。嗚咽。咽び泣き。男泣き。
何をしているんだろう、僕は。今からでも遅くない。家に帰って母に謝り、学校にも苛めを耐え抜いて通い、いつか普通の人生を過ごしていく。
そんな未来があるのだろうか?あって欲しいと、切実に願った。あって欲しいと、誰かに願った。
「誰か、僕に勇気と自信をください」
そう、願ったのだ。
「君は本当に愚かだね」
どこかから声が聞こえた。その声は左方向から聞こえたのだ。僕はそちらに目を向けた。
茂みがあった。そこからまたもや声が聞こえた。
「君は、本当に、愚かだね」
茂みが揺れ、そこから何かが現れた。
猫だった。黒い、大きな、異様に尻尾の長い猫だ。その猫がまたしても言ったのだ。
「君のその嗚咽や言葉に、やかましくて寝てられやしないよ。いい気分で寝ていたのにさ」
にゃあーご。
猫は尻尾を立て、僕の目の前へと寄ってきた。僕は自分の耳を疑った。幻聴かもしれないし、そうだとしたら本当に僕はもう駄目なのかもしれない。
僕は疑心暗鬼ながらもその猫に語り掛けた。
「君は……なんなんだい?」
「なあに、普通の猫さ。でも、この通り人語が喋れる点において、普通とは言い難いがね」
僕は妄想の虜となってしまったのだろうか? でも、この頬を撫でる風も、痺れている足も、言いようのない不安定な心も、妙にリアルだし、その猫の姿ははっきりと僕の視界に映っているのだ。その声ははっきりと僕の耳で捉えられているのだ。
「私の事を、ただの幻覚か妄想の類いだと思っているだろう? いいや、それは間違いだね。僕は猫、それも宇宙猫さ。現実を受け止めなよ。君は僕と話をしているんだよ?」
その猫は言った。尻尾がゆらゆらと左右に揺れた。
僕はおそるおそる尋ねた。
「宇宙猫って……なんだよ?」
猫は涼し気な顔で答えた。
「ビッグバンから生まれた、もう何百億年も生きている猫さ。だから、宇宙の真理や森羅万象の事を否が応にも知っている。普段は普通に猫としてのほほんと生きているが、君の泣き顔にどうしてか心打たれてね。こうやって声をかけたって次第さ」
にゃあーご。
その猫は後ろ足で耳の裏を搔きながら言った。僕はなんだか不思議な気持ちで、頭をぽりぽりと掻いた。
「で、君は僕の前に現れて何をしようっていうんだ? その牙で僕の頸動脈を食いちぎってでもしてくれるのかい?」
「まさか!」
ははは、とその猫は笑った。僕はその時初めて、猫が笑うことを知った。
「君を、助けたいと思って出てきたんだよ。別に君を食い殺すわけじゃない。それに、人間の肉はあまり好きじゃないんだ。どうも舌に合わなくてね」
猫は悪びれもなく言った。
僕は少し期待した。そして、期待した自分を恥じた。
こんな猫が僕を助けるだって? 何を期待したんだ僕は。こんな普通の猫が(言葉を喋る点は普通ではないが)何をしてくれるっていうんだ。
「今、君は己の事を恥じただろう? こんな猫にってさ。でも、信じてもらいたいんだ。どうせ、君には信じれる友達も大人もいないんだろう? なら、喋る猫ぐらい信じたっていいじゃないか? 物は試しだ」
猫は真剣な目で言った。月の光に照らされてぎらりと光るその目は、全ての人を納得させるような趣があった。まさしく、経験がすべてをいうこの世界で、その猫は何百億年も生きている風貌を醸し出していたのだ。
僕は、少しこの猫が好きになっていた。何故だかわからないが、自分の全てを捧げて信じてもいいような、気持ちになったのだ。それは僕の現実逃避から来る最大限の賭けだったのかもしれない。
猫は僕が決断するのを待っていた。そして、切り出したのだ。
「心は決まったかい?」
「うん、君を信じるよ。どうなろうと、僕は帰る場所なんてないから」
猫はそれを聞くと全身全霊を持ってはにかんだ。僕はその時初めて、猫がはにかむ事を知った。
「じゃあ、行こうか」
「行くって何処に?」
「宇宙さ」
猫は何の気もなしにそう答えて、歩き出した。僕は意味が分からなかった。そして、次の言葉で余計意味が分からなくなったのだ。
「2001年宇宙の旅という映画を知ってるかい? 昔、人間に飼われていた時にビデオで観たんだけれど、全然意味が分からなかったな。あれが宇宙の何を表現しているっていうんだ。人間の考える事は訳が分からないね。君は観たことは?」
僕はぽかんと口を開けたまま、その猫の後姿を見ていた。
「いや、観たことがないけど……」
猫の尻尾がピンッと立つ。
「それじゃ、黒い四角いモノリスは知らないわけだ……あれが、こう言ってはむかつくけど、一番効率的で神秘的なのになあ。しょうがない」
猫は駐車場に放置してあった大きな段ボールをその肉球で指した。それから、僕にその段ボールを解体するように言った。
僕はその段ボールを開いて広げた。大きさは縦2メートルぐらいで幅が1メートルぐらいだ。
「それを床に置いてくれ、少年」
僕はその大きな段ボールを床に置いた。猫が手を触れた途端、その段ボールは宙に浮き、鮮明な光を放った。
僕はつばを飲み込んだ。
なんなんだこれは? 新手のマジックかなにかか? そう疑ってみたけれど小さな糸も磁石だってありはしなかった。
「さあ、乗ろう」
猫はキャットタワーに乗るみたいにぴょんっとその段ボールに乗った。僕は恐る恐るその段ボールに乗ったのだ。
「さあ、何かにしがみついてくれ。何もなかったら私にしがみつくのもありだ」
僕は猫にしがみついた。途端、その段ボールは宙を舞い、空を飛び始めた。急角度で、物凄い速さで天に向かって段ボールは飛んだ。不思議と、猫は石のように微動だにしなく、風圧にその体が負けることなどなかった。僕は懸命にその猫にしがみついていた。
5分程経っただろうか。僕と猫は雲を突き抜け、大気圏を突き抜け、月へと到着した。地球が見える。丸い大きな青い地球。その惑星に様々な人が様々な心を持ちながら住んでいるのだろうかと思うととても信じられない。
僕は何故だか真空状態でも生きていられた。
「私が細工したんだよ。君が宇宙に適応できるようにね」
にゃあーご。
この猫は神様なのかもしれない。そう、思った。ますます僕はこの猫を信じれるようになった。
「さて、君にここに来てもらった訳だけど……あそこに望遠鏡がある。あそこまで競争だ」
100メートル先ぐらいに望遠鏡がある。不思議だ、と思っても今更僕に不思議という言葉が当てはまるのかさえ不思議だった。
段ボールをそのままにして、猫は、3、2、1、と言って0になった瞬間走り始めた。不思議な事に猫は地球にいるみたいに走ったのだ。それを追う様に僕は望遠鏡に向かった。月の砂は凄く柔らかくて足がのめりこんでしまいそうだったし、無重力空間に慣れていないためふわふわと身体が浮いた。
望遠鏡に着くと、まずその猫はその小さな目で覗いた。それで、うんうんと唸るように頷いた。
「さあ、ここから見てごらん」
僕はその望遠鏡から地球の方を片目で覗いた。
僕の家が見えた。猫は望遠鏡の横のノブをその肉球で少し捻った。そうすると、外観が透明になり、家の中まで見れるようになったのだ。
状況は悲惨だった。リビングのほとんどの物は壊れ、お母さんは、かろうじて生き残っていたソファに座って顔を押さえている。姉は暗い自室でもう寝ている(目元の辺りが赤く染まっていた)。
ああ、僕はなんて事をしてしまったのだろうか。僕の責任だ。学校へ行かなくなったのも根本的には、僕の根暗な性格から生じた苛めであったのだ。僕は自己嫌悪に包まれた。僕が悪いんだ。僕が最低なんだ。逆に、こんな僕を食わせてくれたお母さんに感謝が足らなかったのだ。僕はその時、初めて家族というものを好きだったんだなと実感した。歪な家庭環境だけれど、確かに僕らは血のつながった家族だったのだ。
「物思いに耽っているとこ悪いけど、少し、1ミリぐらい望遠鏡を上に動かしてくれないかな」
僕は言われた通り、1ミリ上に動かした。透明機能はついたままだ。
どこかの家の中が見える。男の人と女の人と、小さな子供。多分家族なのだろう。幸せそうだ。そう思った瞬間だった。その男が、吸っていた煙草をその小さな子供に押し付けたのだ。僕は驚愕した。地球と月の距離なので、声は聞こえないのが幸いだったが、その子供は泣きながら逃げていく。父親らしき人物はそれを追いかけ、また煙草を押し付ける。母親らしき人物は笑っている。
なんなんだこれは、本当に、現実なのか? まるで救いが無いじゃないか。僕は胸の中がざわついて、今にでもその家族の事を警察に教えたかった。そう、その彼ら以外虐待を知っているのはいないのだ。近隣住民は何をしているんだろう? 普通、近くで悲鳴が聞こえれば警察に連絡するだろう?
「驚いたかい? 今、本当に現実で起こっていることなんだよ。少し、5ミリぐらい上も見てくれ」
その言葉に従い、上にずらす。何処かの国の、草木が一本もない荒地だ。タイヤの跡が付いた車道らしき所に少年が座っている。痩せこけた身体は僕とは比べ物にないほどに醜かった。膨れたお腹は栄養失調の証だし、悟りきった悲しそうな目は地平線を見ている。
僕は驚愕を通り越して、愕然としていた。言葉が出なかった。今まで教科書でしか知らなかった真実が、ありありと目の前に見えているのだ。
そして、彼は苦しむようにもがいて死んでいく。その眼に涙を浮かべながら。僕は、泣きそうになった。
「それが、戦争孤児だね。親を亡くした子供。もうすぐ死ぬんじゃないかな? でも、それも人間が生んだグロテスクなんだね」
僕は望遠鏡から目を離し、背けた。この非道な世界に、目を背けたくなった。でも、現実なのだ。
「君は恵まれている方だよ。この言葉を、君が望遠鏡で見る前に言ったら大層怒っただろうね。でも、望遠鏡を覗いた後だとどうだい? 君はそれでも自分は恵まれていないとでも言うのかい?」
「僕は……本当に馬鹿だ。今までこの世の理不尽を知った気になっていたけれど、辛いのは僕だけじゃなかったんだ。僕の辛さなんて彼らに比べれば蚊に刺されたぐらいの物だったんだ……」
僕は泣きながら言った。ひどくしゃがれて、嗚咽になっていた。
「そう、普通の家庭に住んでいる人たちは、誰もが自分の不幸せを嘆くけれど、そんなの私からすれば笑っちゃうものだよ。これは、チャンスだ。現実を知って、それから君がどうするかは君の判断に任せるよ。それじゃあね。さよならだ」
猫は激しく発光し、僕の目の前から消えた。
それから、物凄い風が辺り一面に吹いた。その風音の中で、僕は彼らの悲鳴や泣き声を聞いた。
そのあとの記憶はおぼろげだ。いつのまにか駐車場に戻っていて、なんとか家まで歩いて帰り、ひっそりと裏口から自分の部屋に戻った。
月はもう雲になど隠れてなかった。
それからの僕は一変した。あの猫と会って、僕は僕自身の幸せのために奮起するようになった。もう同じ轍は踏みたくない。そう思い勉強にも専念し、テストで一番や二番を取るようになった。暇なときは本を読み(海辺のカフカはもう僕に必要ないので捨てた)教養を高めた。家に帰ったら真っ先に家事をやり、料理も作るようになった。
最初の内は皆に怪訝な目をされていたけれど、その内、苛めはなくなっていった。母と、姉の笑顔が増えた。初めて、本当の家族になれた気がした。
僕は、薄暗い部屋の中から月を見た。雲一つない満天の星空に月がその光を放っている。
「ありがとう、宇宙猫」
にゃあーご、という鳴き声がした。