私のバケツヒーロー

 

 

 幼少の頃、泣き虫だったわたしはよく男の子たちにいじめられていました。
 本当は双子の兄がいるはずのわたし。しかしながら、兄は生まれてくることなく、そのくせわたしから元気を根こそぎ奪っていきました。おかげでわたしは元気のない、こんないたいけな少女に育ったのです。わたしのこの性格は兄のせいなのです。おそらく。
 そんなわけで、近所のクソガキさんたちからしょっちゅういじめられていたわたしですが、そのたびに助けてくれた謎の男の子がいます。彼は恐るべき力と素早さで、いじめっ子たちを追い払ってくれました。
 謎、というのは簡単なこと。彼はいつも頭からプラスチックのバケツをかぶっていたのです。
 使い古されたぼろぼろのそれに穴を開け、そこからのぞく大きな瞳は今も忘れられません。


「あなたはだあれ?」

 

 ちいさなわたしが訊くと、彼は決まってわたしの頭をなで、こう言うのです。

 

「正義の味方さ」

 

 どことなく懐かしく、そしてあたたかいその声は、わたしを夢見心地にさせるのでした。

 あれからもう十年近くが過ぎ、わたしも人生という荒波にもまれて、人としてのたくましさだとか、生きていくための姑息さだとか、自分を強くみせるための手段をいろいろと体得してきました。もうわたしをいじめる人はいません。むしろ高校生にもなってそんなことをしている人なんて逆に珍しいくらいなんでしょうけれど。わたしの周りは、やがて訪れる受験戦争に向けて、お勉強の毎日なのです。
 もちろんわたしも日々お勉強漬け――と言いたいところではありますが、残念ながら、わたしは無理をしない主義です。がんばればギリギリ受かるかどうかの大学を目指すよりも、がんばらずとも確実に合格できる大学をお受験します。いいんですよ、一歩社会に出てしまえば、どの大学を出たかよりも、大卒か否かでしか見られないんですから。
 そんなことよりも。
 時々ふと思い出す、バケツをかぶった正義の味方さん。いつの間にか姿を見せなくなって、大変ご無沙汰しておりますが、彼は元気でやっているのでしょうか。さすがにもうバケツはかぶっていないでしょうが、あの頃のまっすぐな心をまだ持っていてくれたら嬉しいです。
 なんてのんびり考えながら歩いていたのがいけなかったのでしょうか。
 わたしは突然、事件に巻き込まれました。いえ、巻き込まれたというか、渦中の人です。どストライクで被害者です。人通りの多い商店街を颯爽と走る、二人乗りのスクーター。賑やかなのが災いし、背後から接近するそれに、わたしは気づきませんでした。あっと思ったときはもう遅く、あわれ、わたしのお気に入りの手提げバッグは奪い取られてしまったのです。ああどうしましょう。

 

「あのスクーター、泥棒ですー。わたしの鞄を奪っていきましたー」

 

 とりあえず声を上げながらスクーターを追いかけます。しかしながら、わたしは昔から声がちいさく、叫んでいるつもりでもなかなかそうとは人に気づかれません。おまけに運動が大の苦手なので、あっという間に息が上がってしまいます。困りました。
 スクーターの消えた角を曲がれども、そこにはもうその姿はなく。
 数年ぶりの全力疾走で激しく上下する肩を抑えながら、わたしはあちこちの裏通りを覗いて廻りました。本来なら警察のかたにお願いすべきなのでしょうが、その隙に逃げられては意味がありません。事態には早急な対処が必要なのです。別におまわりさんを怖がっているわけではありませんよ。ええ、もちろんですとも。
 何度目かの小路を入って奥に進むと、ああ、なんという幸運。狭いけれど開けた場所に、見覚えのあるスクーターと、ヘルメットを脇に置いて座り込んだ男性がふたり、わたしの目に飛び込んできました。
 ふたりはわたしの手提げバッグを開けて、中からお財布を取り出しました。わたしは思わず声を上げます。

 

「や、やめてくださーい」

 

 ふたりは驚いてこちらに振り返ります。もし視線に質量があったら、わたしなんか一瞬で押し潰されてしまいそうな目つきでもって、こちらを睨んでいるご様子。どうやら怒っているようですね。怒るべきはわたしのほうだと思うのですが、それをこの人たちに言ったところできっと聞き入れてはくれないでしょう。なんとなくそんな気がするので言いません。
「おい、ねーちゃん。俺らの顔見て無事に帰れると思うなよ?」
 ひとりがそんなことを言ってきます。怖い顔です。わたしはぶるぶると震えます。それを見て、もうひとりが笑いました。
「おいおい、こいつビビってんぜ。ひゃはは」
 そりゃあビビりもするでしょう。こちらは無力な一般市民。対する相手は怖い顔をした、おそらく人権もないであろう男性ふたり。いやまあ人権はともかくとして、わたしひとりでどうにかできる相手でも状況でもないのは事実なのですから。
 助けを呼ぼうにも、ここから大通りは遠すぎますし、なによりこの声量です。大声で笑いながら行き交う人々の耳に届くとは到底思えません。ひじょうに困りました。わたしはこれからどうなってしまうのでしょう。
 困り果てたそのときです。

 

ユー、ちょっと待っちゃいなヨ」

 

 なんて、どこかの大物社長さんみたいな声がかかります。でも声は若いです。誰だろうと思って見回すと、奥の小路にひとりの少年が立っていました。少年……だと思います。
 顔が見えません。なぜなら彼は――頭からバケツをかぶっていたのです。

 

「んだコラ、てめーは」
「バカみてーなカッコしてんじゃねーぞ」

 

 わたしに注がれていたふたつの邪悪な視線は、一気にそちらへと向き直ります。
 ごめんなさい。わたしも正直、あの格好はよろしくないと思います。ちいさな男の子ならまだしも、わたしと同年代(推定)の少年が行う所業ではないでしょう。というより、わたしの大切な思い出が汚されたような気がしてならないだけなんですが。
 しかし彼はそんな波風に揺れることもなく、泥棒さんたちを指差して言い放ちます。

 

「俺か? 俺は正義の味方だ」

 

 ――どきん。
 胸を打たれました。目を見開きます。彼は今、なんて言いましたか?
 呆然とするわたしの前を、泥棒さんたちが正義の味方さんの方へと走っていきます。グーで思い切り叩くのでしょう。叩かれたら痛いです。彼らの腕力で叩かれようものなら、間違いなく泣いてしまいます。
 が、あっという間でした。
 わたしがこれから満を持してハラハラしようとした矢先、正義の味方さんに叩かれた男性ふたりが宙を舞いました。くるくる回って、見ているほうが酔ってしまいそうです。放物線を描き、彼らは地面に降り立ちました。顔から。そしてピクリとも動かなくなって、あとにはわたしと正義の味方さんだけが残りました。
 数秒の静寂。遠くから聞こえる賑やかしい声が、まるで別世界のように感じられます。

 

「あの、ありがとうございます」

 

 ぺこりと頭を下げます。姿はどうあれ、彼はわたしを救ってくれたのです。人として、お礼は当然です。
 下げた頭をなでられました。顔を上げて彼を見ると、使い古されたプラスチックのバケツにはやっぱり目の部分に穴が開いていました。その奥にのぞく瞳は大きく、どうしても『彼』を思い出してしまいます。いじめられっ子だったわたしを助けてくれた、謎の男の子。
 するとバケツの人は言いました。

 

「まだまだだな」

 

 わたしは首を傾げます。彼はなにを言っているのでしょうか。

 

「お前はまだ弱い。体力的にもそうだが、心が特に弱いままだ」

 

 突然のダメ出しに、わたしはちょっぴりむっとなります。

 

「わたしは弱くありません。鋼のメンタルですよ。心臓だってロン毛なんですから」
「いや、お前は弱い。強いというのなら、なぜ鞄を奪われたときに声を上げなかった? なぜ襲われそうになったときに逃げ出さなかった? どうせまた、できるわけがないと勝手に決めつけて諦めたんだろう」
「そ、それはですね……」

 

 うまい言い訳が思いつきません。いえ、言い訳を探していることこそが、彼の言葉の正しさを示すなによりの証拠ですね。しどろもどろになっていたわたしは、肩を落とします。やっぱりこの人には敵いません。
 そう。気づいていたんですよ。本当は最初から。彼が、『彼』であると。

 

「大きくなったな」

 

 彼が言って、またわたしの頭をなでます。あの当時も、たしかこうされてましたっけ。

 

「あなただって大きくなってるじゃないですか」

 

 こうしてまた言葉を交わしていることが嬉しくてなりません。どんどん表情がほころんでいくのが分かります。こんな顔を他人に見られるのはどのくらいぶりでしょうか。恥ずかしいけれど、嫌ではありません。彼になら許せるのです。
 端から見れば、これほど間の抜けた状況はないでしょうね。バケツをかぶった少年と、向かい合って涙ぐむ少女。いったいどんな想像をされるのでしょうか。答は知りたくありませんが、ちょっぴり興味はあります。

 

「あの、そろそろお名前を教えていただけませんか? 正義の味方さんなんて呼びづらいです」

 

 すると正義の味方の少年はすっと目を細め、踵を返しました。

 

「待ってください。わたし、強くなりますから。だからお名前を教えてください」

 

 お願いというより懇願です。切願です。なんとみっともない。
 しかし彼は、肩越しに振り返って答えてくれました。
 そうですか。それが、あなたの名前。わたしをずっと助け続けてくれた、ヒーローの名前。

 

「ありがとうございます。あの、わたしは……」
「知ってるよ」

 

 わたしの声を、片手を挙げてさえぎります。

 

「お前の名前は、お前が生まれたときから知ってるよ」

 

 どことなく懐かしく、そしてあたたかい、わたしを夢見心地にさせる彼のその声は、きっとずっと昔から――ずっとずっと昔から知っていて。きっと、生まれたときから知っていて。だからわたしは、頬を濡らしながら、精一杯の笑顔でもって答えたのです。

 

「……はいっ」
 


 家に帰ったらすっかり遅くなってしまって、お母さんにこっぴどく怒られました。でも仕方がありません。五時には帰ると言って家を出たのに、もう八時なんですから。お母さんは帰りの遅い娘を心配してくれていたのです。ありがたいことではありませんか。
 わたしはお母さんに訊きます。

 

「ねえお母さん。わたしのお兄さんの名前は決めていたの?」

 

 お母さんは「なにを突然言い出すのかしら」と驚いていましたが、すぐに優しい顔に戻って答えてくれました。
 わたしのヒーローの名を。
 さあ、今日はぐっすり眠りましょう。明日学校に行ったら志望校のランクをひとつ上げてみます。大丈夫です。わたしはもう諦めたりしませんから。

 

 

 

 

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