傘とショコラ

 

 

 

 それは、街の空一面にレースのカーテンが掛かっているような、曇天の朝だった。 

 私はケイ。コンセルヴァトワール(音楽院)でオーボエを学ぶ十七歳の女の子。 
 留学のため親元を離れて、こっちで友達とアパルトマン(賃貸住宅)を借りて住んでいる。 
 私は目を覚ますと、壁のカレンダーと時計を見た。今日は日曜日で、学校はお休みだ。だけど、同室の友達を起こさなければ。彼女に、日曜は用事があるから早く起こしてと頼まれてたっけ。 
「ねえ、リディー、起きて」 
……んー、もう少し…… 
「今日、スタジオでしょ。遅れるよ」 
……ケイ……あと五分…… 
 友達の名はリディー。私より二つ年上で、同じ学校でサックスを勉強している。土日や授業のない日はどこからかスタジオの仕事をもらってきて、楽器ケースを持って出かけることが多い。 
 リディーは体をもぞもぞと布団の中で動かすと、うーん、と小さく唸ってゆっくり起きあがった。自分の髪が乱れているのも気付かずに、ベッドの上でぼんやりとしている。低血圧らしく、朝はいつもこうなのだ。 
 なんとか起きたリディーがふらふらとシャワーを浴びにバスルームに向かった。今のうちに、二人分の朝食を作ってしまおう。今朝はシナモントーストとティー・オレ。 

 シャワーを浴びて身支度を済ませたリディーが戻ってきた。乱れていた淡いブロンドの長い髪はちゃんとセットされて、銀色の瞳はしっかり焦点が合っている。誰が見ても美人な、いつものサックス吹きのリディーに変身している。同じ女として、ちょっとだけ羨ましい。 
 もっともリディーに言わせると、彼女は彼女で私の黒い瞳と黒髪に「ちょっと嫉妬した」そうだ。黒い髪と瞳はステージの上では映えるから、らしい。 
「いい匂い。おかげで目が覚めたわ」 
「おはよう。さ、食べよっか」 

 リディーを見送ると、私はリードをくわえながらオーボエを組み立てる。明日はレッスンとオーケストラだっけ。もらった課題とパート譜を今日でしっかり仕上げてしまおう。 
 譜面台に楽譜を置いて、メトロノームにスイッチを入れる。リードの吹き心地が何だか重い。天気のせいかな。 

 朝に空を覆っていた雲のレースは、午後になると幾重にも重なって厚みを増し始め、今にもその綻びを雫に変えて地上に落とそうとしていた。 

 オーボエを置いて、ふと外に目をやった。 
……リディー、傘持って行ってたかな」 
 アパルトマンの窓の外は、銀糸のような雨が街の彩りをすっかり褪せさせてしまっていた。 
 もう夕方。スタジオは確か、ここから六ブロックほど歩いた先にある。 
 玄関にリディーの傘は……やっぱり、置いたままだ。 
 仕方ない。私は二人分の傘を手にして雨の降る外へと飛び出していった。 

 スタジオからひとつ手前のブロックで、予期しない雨に戸惑う姿があった。あれは…… 
「弱ったわね……止みそうにないわ」 
 所在なさげに雨宿りしてる、アルトサックスのケースを肩に提げて、困ったように空を見上げる姿。リディーだ。 
「リディー!」 
「ケイ。助かるわ」 
「濡れなかった? 楽器、大丈夫?」 
 リディーの髪にもジャケットにも、雨粒がパラパラと当たった跡があった。間一髪、だったみたい。 
「心配ないわ。……帰ったら、熱いショコラが飲みたいわね」 
「了解。たっぷり甘いやつでしょ?」 
「うん。ケイ、あんたが淹れるのよ」 
「いいよ。……私も飲みたくなっちゃった」 
「太るわよ? ま、ケイの胸にはちょうどいいかしら」 
「もう。リディーったら。……自慢してんの?」 
「さあ? ……明日は晴れるといいわね」 

 雨に濡れる街には、夕闇の帳が降りようとしていた。黄昏に降る雨は、私とリディーをねぎらうかのように、穏やかに二人の傘の上に降り注いでいた。 

(了)

 

 

 

 

 

 

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